私は安高、福島県立安積高校を休学している最中に、フォークギターにハマった。
まずは、お母さんに、ギターが欲しいとせがんだ。すると、幾ら位するの、と聞かれて、私は、大体三万円位のが欲しいんだ、といった。
最終的に、郡山駅前の当時の名称道路、四号線沿いの十字屋楽器店で購入した。
それに対して、我が家では、中学生の時に、既に私はクラシックギターを習っていて、我が家でその時の先生から購入したギターの金額が十万円ピッタリだった。
これは余談になるが、後年、市民文化センターのそばのやはり、クラシックギター教室、佐々木ギター教室に、そのギターを持ち込んだ。確かそのギターは、高峰ギターと書いてあった。勿論日本製である。
先生はいたずらっぽく、このあなたが持って来たギターの価格の値踏みをしようか、と仰られ、私も知りたかったので、お願いします、と応じた。
そうしたら先生は、どこでどう見知ったのか、「十万円でしょう!」と即答で答えられた。
この話を家に帰り、母にすると、へー、そんなの先生が当てたの?不思議なものねえ、と本当に不思議がっていた。
いずれにせよ、十万円は十万円であり、しかし、そのギターも、ちょうど東日本大震災が起こった、放射能が街に降る中で、私達母子は、群集の中をさまよい歩き、そのギターを母の大人の三輪車の荷台に乗せて、質屋へと向かった。あの頃のその日の生活費を稼ぎ充てるために。
そして、生活の足しにと、それが、一万円と六千円位で売れたのだった。
お客さん、これは、中古専門の楽器屋さんか、東京などの大都会に行けば、高値で売れただろうに、残念だねぇ。と言われた。
それでも、母に親孝行出来た気分は、とてもやさしいものだと感ぜられた。
その後、我が家は経済的に時々困ったり、立ち直ったりを繰り返した。
そして、日蓮正宗へと入り、生活が非常に困窮したかに見えた。まるで最後の膿を出すかの如くに。
それからのちの我が家の経済は、私のブログ内の、二年前の、社協さん全面協力の下の、連続物の、借金脱出記載記録記事にも書いてある通り、薄皮をはぐように、段々と落ち着いて行った。今では現金を主体にした生活であり、借金はゼロの健全財政・家計である。そうして今がある。
何だかギターの話から、遠ざかってしまったが、ともかく、この写真のギターは、私が高校生だった頃に、まさしく、音楽楽器の練習に勤しんだ記憶が残る、想い出のギターだ。
しかし、何分、試し弾きをしないで、デザインと値段で、メーカーもどこ国製も考えずに買ったものだから、音は非常に悪い。三万円の価値が果たしてあるのか。それに当時日本製の時代の韓国製である。非常に安く仕上げたものである事は間違いない。
それでも、当時の私は、今に至るまで、このギターと共に暮らして来たので、愛着もある。だから、幾ら震災と言えども、最後の防波堤として、我が家の楽器史に残るに足る充分な音楽楽器として、残って来ている。
ただ、やはり音が悪い。これだけの体裁、値段にしては、文句を言う方がおかしいのかも知れぬが、本当に音が悪い感じがする。
それとも、弾く人の技量に因るのか。私には他の楽器を弾いた事が無いので分からない。
ただ、今からもう、さかのぼる事、三十年余りの、磐梯高原で開かれた、ユースホステルの様な所で開かれた、精神障碍者の集い「ばんだいの集い」で、ヤマハのギターを軽く弾きこなす青年がいた。あの時、私も二十代そこそこだった。
そのヤマハギターの音色の素晴らしい事、音の数々。驚いた。それにネックが非常に細くて、如何にも手の小さな細い私でも弾きやすそうであった。
それで彼は、ビートルズの曲を一杯弾いた。楽しそうに。私も、英語の歌詞で応えた。
その後彼は、何と舞台に立ち、小川ロンさんと言ったか(名前は失念。しかし、この名前で記憶違い、間違いは一切無い、どこか自信というものが私の記憶の底にはある)の一応、芸能人のような人と、ギター競演を果たしたのには驚いた。しかし、先ほどの流暢なギター演奏とは異なり、非常に興奮してしまいどこか舞い上がっているようだった。
それでも立派に、タレントの人の伴奏の御役目をはたして、気分が良さそうであった。
彼は、その時聞いた話だと、元々がジャズギター出身で、東京のジャズバンドにいたという。楽器のギターも、十万円したという。
以上。よしなに。wainai