以前、図書館にて、読み耽った本の中で、クラシック音楽について述べた本があった。その著者が、言っていたのが、クラシック音楽、その音楽家、等々を、考え、述べて、一人でいる時も、大勢の群衆に紛れた、皆との間でも、貧乏・苦悩・孤独を忘れ、癒し、治してゆくのには、クラシック音楽が、非常に最適な娯楽、芸術、音楽なんだと言う、自説であった。
なる程、と思った。私も経験が既にあった。その時、私は、学業の事で、思い悩んでいた。しかし、その危機を、見事、ベートーヴェンのその時は音楽であったが、その時の危機は、私は、脱した、というか、忘れ去ることに、成功している。
それだけの、孤独や苦悩、貧困を救う力が、音楽には有る、と言う事である。
その人間を鼓舞し、舞い上がらせ、人生を励ますに十分な力が、それら音楽には、有った。
それは、基本的には、歴史の知識、歴史話、大河ドラマ等々の、歴史物、今、歴女という、歴史にやたらに詳しい女性が脚光を浴びているが、それら、歴史などにも、敷衍(ふえん)・応用できよう。
いずれにしても、ゲームにしても、私で言えば、この場合、私の信奉する、日蓮正宗の信仰、朝夕の勤行唱題、自行化他に亘る、折伏行、他、人間が興味を持つ全ての要素に、それら、趣味性も加味して、自己自身の研鑽に励む人々には、「うつ病」などには無縁であると私は思う。
うつ病の実際の所、実態は、自己の実現力、自助努力が欠け、他への、意識を失い過ぎ、というか、意識し過ぎもあるが、余りに自他への感謝の念慮が足りなく、生活感が全く足り無い、実際、皆この世の人達は苦労の連続なのに、自分一人だけがこの世で苦労してるんだとの思い込み、自分の心を他人様の為にはちっとも働かせず、自己の防衛のみに凝り固まった、詰まりは、「エゴ」「利己的」「利己心」意識の塊が、それら、病の根源であると思い致す。言っちゃ悪いが。それは、言い過ぎではないと私は一人、思う。
詰まりは、心の、人への、一肌脱いだ、人働き、一(ひと)働き、雑巾がけ一つせず、身を粉にして働き、働き過ぎもいかんが、時には自分をゆっくり見詰め、休ませる。しかし、自己ばかりを見ていても、埒はあかない。今、人様への御役に自分は立って、貢献してるんだ、という気概を失った、情けない人間観に裏打ちされ、自己自分の事のみにこだわり、自身を却って悲劇のヒーロー・ヒロインにして、一人憂鬱になり、笑い声一つも上げずに、虚無的になり、自分を変に可愛がり偏愛し過ぎるのが、それらの病の根源なんだと、ちっとも、それら病の者達には、現実感が全く無い。心さまよい、心ここにあらずの、常に空想の産物に怯えている。
ちっとは、御本仏宗祖日蓮大聖人様が御教示し、仰って居る、「事の一念三千」に基づいた、事実の上での、実際に行動力で示し切る、理論・理屈ばかりこねないで、実際に、本当に、自分の手や足を使ってみて、苦労を苦労とも思わずに、厭(いと)わずに、懈怠(けたい)、自身をも怠けずに、常に自己を励ましつつ、御自身の力を試して、事実・実際上、御自分でやってごらんなさい、と。やってから物を申しなさい、と。今をちゃんとやって地道に努力して善行を積んで生きれば、結果は後から付いてくるから、と。周りの人達も、次第に応援者が増えてゆき、最後は、人望に溢れた、恵まれた人生となって、後半生を自由自在に送れるようになるから、と。今の時代が、自分に味方をしてくれて、時代・運命・宿命の方から、自分に対して付いて来てくれる人生に、事態は収束してゆき、ちゃんと次第に自然と成って納まってゆくから、と。それを日蓮正宗では「宿命転換」と呼ぶ。
それが、何をやればよいのか、というと、これは、今まで何度もこの稿、記事でも私が訴えて、言って来て、病の治癒にも薦める作法があり、それが祈り、即ち「日蓮正宗」の「勤行」である。これに尽きるのである。病が治る方法が、ちゃんとあるのである。
我々日蓮正宗信徒が、朝の勤行の時の、第一座、初座での、御祈りの時に捧げる、「諸天善神への御祈念」に於いて、朝の第一番で、神々の我々法華経の行者を守るという、神々の第一義に則り、我らは守られている、という信義・信念・実感に基づく、正に、貴重な祈りの時なのである。実に、我々日蓮正宗信徒は、必ずや、諸天善神の神々に、守られ、護持され得る尊い貴重で稀有な存在である、と信ずる。神々に必ず守られる。祈って居れば。そう信ずるのみ。
それらに加えて、我々は、人法一箇の、「人」の大聖人様、「法」の大御本尊様に、自身が、非常な満足感を持って、御守りされ、守って頂いている実感・自意識に裏打ちされて、常に安心感に、日々新たに、常に自身の自己改革・変革・革新・更新を目指して、自身、満足感に満たされて実感して生きている。
その、初座(諸天善神祈念)、二座(本尊祈念)、三座(三師供養及び歴代上人供養、御法主上人猊下様に御忠誠を誓う)、四座(広宣流布祈念、個人・一家の罪障消滅・大願成就祈念)、五座(先祖回向)、これら全ては、朝の五座の勤行である。
夜・夕べの勤行は、これらの内の、二座・三座・五座のみ行い、初座と四座は省く。それに、朝夕共に、南無妙法蓮華経の御題目、唱題を加える。そして、人々にも、自己満足で終わらずにして、積極的に薦めてみる。
これをやり切れば、大抵の悩み・苦労・争い・病は、癒える。
お祈り・勤行をした後は、実にさっぱりとした、爽快感、実に爽やかな、自信に満ち溢れた自分に立ち戻って、原点回帰している自分に、誰しもが、気付くであろう。
宗祖日蓮大聖人様も、御書の中の「経王殿御返事」に「此の曼茶羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり 。さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。いかなる処にて遊びたはぶるともつゝがあるべからず。遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし」 (御書六八五頁)と御教示である。
何と有難く、心強い御言葉か。
私は、日蓮正宗と言う、大聖人様の、日本の柱、日本の眼目、日本の大船、の大仏教大仏法哲学・大宗教を自身の思想信条の第一義に置き、信奉する以上、これを護持し、守護し、守り続ける意味・意義・意識で、只、一途にこれら御教えに従うのみなのである。
但し、ここで、付言して、言っておくが、あくまでも、獨一本門の、嫡嫡の、唯授一人、法灯連綿、法水写瓶の、大聖人様直系の、大御本尊様を戴く、我ら、世界唯一の正統派、「日蓮正宗」の僧俗合わせた信徒たちのみをこそが、この、祈りの実現を約束せられている。これ以外には真実はどこにもないのである。この他に、どこを探しても、見当たらない、全くないのである!
むしろ、これの、この日蓮正宗以外の、まがい物の宗教宗派、詰まりは、我らは判りやすく、それらを邪師による、邪義・邪法・邪説・邪道の邪宗邪教と呼び習わし、それらとの、完全・絶対の拒絶を意図企図して、それらとの交わりには、断固として反対し、それら邪師による邪義の邪宗邪教を根絶断絶すべく、我ら日蓮正宗信徒たちは、日夜、血眼になって、苦労を苦労とも思わず、寧ろ、自身の反省、自己を震え上がらせ、打ち震え、自身を鍛え、励みとして、努力しつつも却って感謝も致し、勇敢に立ち働いているのである。
以上。よしなに。wainai