Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ。

かつて創価の私が今、改めて、昔は学会人と呼ばれて、内心、うれしい

2022年08月21日 05時59分57秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 私は日蓮正宗に入信してからは、過去の自身の創価学会の半生、歴史の全てを否定するかの如くに過ごして来た。創価は大嫌いになり、邪教と忌み嫌い、毛嫌いする。
 私にとって、創価とは、最もやってはいけない、最も危なく、御住職様も時々御説法で批判、非難なされているのを見ても、そうだ、その通り、と、創価の話の時は耳をダンボにして、聴きとる事に集中する。それは、わたしにとり、大変に勉強になり、為になり、心して耳を傾け、拝聴する。有難い。
 とは言っても、創価は宗内ではかなりイメージが悪い。
 しかし、数年前の、コロナ問題以前に、日蓮正宗総本山富士大石寺に登山する際、支部総登山でバスの車中で隣同志になったON寺さんという中年女性の方と一緒に語らいしゃべった際、私はかつて、邪教創価学会の信者だったんです、というと、「へー、wainai君は『学会人』だったんだ」と言われ、何だか持ち上げられている気がして、こちらも悪い気はしなかった。あの頃の信心も役には立ち、何一つ無駄じゃないと。
  「学会人」というその誇り高き言葉が、嫌味が無く、ちゃーんとその女性が、私の過去・経歴をも包み込み、なーんにも、卑下、他人より自分が劣っているなんて思わなくてもいいんだよ、と言われている気がした。
 日蓮正宗には、過去、元々、色々な宗教に属して来た人々が大勢いる。元をたどればほとんどが他宗他教の信者ばかりだ。元々の生え抜きの日蓮正宗法華講の信徒なんて、珍しく、居るにはいるが、数える程しかいない。
 創価の間違った教義に付き従う必要は全くないが、その訓育された、集団鍛錬、牙城会等にいた人たちはその教育の一部は、全て無駄にはならない。むしろ、日蓮正宗側に付いた時、それらは貴重な財産・武器となる。
 将棋の世界、勉強で、将棋駒の「歩」が相手の陣地に入り、「と金」に生まれ変わるのと同じである。「歩」の駒兵が捨てられる事無く、新たに勝利を呼び込む新たな将軍、殿様、武将の元、家来家臣臣下の兵士として再び再利用、再生し、蘇り、生まれ変わり活用されるのと同じである。それが大日本の将棋だ。
 むしろ、それら過去を生かして、その今まで体験して来た過去の宗教と対決する為、折伏の勉強の糧を自分は過去から培い、何一つ、無駄は無いんだよ、とその女性にズバリ言われたような気がした。
 創価に対して皮肉の意味で感謝と、私を一人の人間として認めてくれたあの女性に感謝したい。

 以上。よしなに。wainai


最新の画像もっと見る

コメントを投稿