閑話休題。それはさておき。大聖人様は、『経王殿御返事』(文永一〇年八月一五日 五二歳 「御書六八五頁」)の中で、
「さいはいは愛染のごとく、福は毘沙門のごとくなるべし」――愛染とはインドの言葉の梵語では羅誐(ラーガ)といい、その意味は「愛欲貪染」ということで、妙法五字の光明に照らされて、本来そのものが持つ尊い姿に立ち戻ってからは、人々の煩悩を浄化し、煩悩に染められてしまった生命境涯から解脱させるところからこの名前がつきました。
人は煩悩の渦にのみこまれている時は、はためには、どんなに手に入れたいと思うものを次々と手にしているように見えても、本人は満ち足りた気持ちを味わうことは全くありません。その煩悩が浄化された時、人は初めて幸福感を得ることができるのです。ゆえに「さいわいは愛染のごとく」と申されました。
また毘沙門とは四大天王の内の一人で、多聞天ともいいます。世界の中心にそびえるという須弥山の北側の中腹に住み、常に仏の説法を聞き、仏法の道場を守護するはたらきを持つといわれています。
法華経陀羅尼品では題目の行者を守護することを誓っており、法華経の諸天善神の一人として御本尊の左側の一番上に描かれています。
この神は「福」を得たり、戦さに勝利することを祈願する神であるところから、「福は毘沙門のごとく」と申されているのです。
「いかなる処にて遊びたはぶるともつゝがあるべからず。遊行しておそれ無きこと師子王の如くなるべし。十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかゝるべきなり」――皐諦女という方は、十羅刹女の中のお一人で、天上界と人間界との間を自由に行き来することができたので、何処と呼びます。つまりどんな処でも変幻自在に現れては題目の行者を守り抜くのです。
ですから、いかなる処であそびたわむれていようとも、身に危険が及ぶようなことはありません。ふざけたり、わざと危険をおかしたりしないかぎり、色んな形で守られていくのです。あたかもライオンが悠然として何物にも恐れないように振舞っていきなさい。
「ただし御信心によるべし。つるぎなんども、すゝまざる人のためには用ふる事なし」――ただし、御本尊のお力も、諸天善神の守護も、すべてはご自身の信心にかかっているのです。どんな名だたる刀でも、その人が気がすすまなかったり、これまで練習もしたことがなく、まるで赤ん坊のように使い方がわからなかったり、あるいは勇気がなかったなら、かえって危なっかしくて、何の役にも立ちません。
「法華経のつるぎは信心のけなげなる人こそ用ふることなれ。鬼に金棒たるべし」――南無妙法蓮華経の御本尊も、わが身ははかなくも、こと信心に関しては勇ましく、骨身を惜しまず信行に励む人が用いてこそ本来の用をなすもので、まさに鬼に金棒とはこのことなのです。
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」――この御本尊、ただの文字といってはなりません。『諸宗問答抄』には、「文字はこれ三世諸仏の気命なりと天台釈し給へり」(御書三六ページ)と申されています。
(引用文献:日蓮正宗本久山西大宣寺様HP2009年2月1日「色心」・「災いを転ずる御本尊 日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ日蓮が魂はこの御本尊に過ぎたるはなし」)
かなりの長文失礼致しました。全てコピペ、コピーアンドペーストです。一応、自身の所有の御書とも照らし合わせて考えてみました。非常に感銘を受けた次第です。
以上
「さいはいは愛染のごとく、福は毘沙門のごとくなるべし」――愛染とはインドの言葉の梵語では羅誐(ラーガ)といい、その意味は「愛欲貪染」ということで、妙法五字の光明に照らされて、本来そのものが持つ尊い姿に立ち戻ってからは、人々の煩悩を浄化し、煩悩に染められてしまった生命境涯から解脱させるところからこの名前がつきました。
人は煩悩の渦にのみこまれている時は、はためには、どんなに手に入れたいと思うものを次々と手にしているように見えても、本人は満ち足りた気持ちを味わうことは全くありません。その煩悩が浄化された時、人は初めて幸福感を得ることができるのです。ゆえに「さいわいは愛染のごとく」と申されました。
また毘沙門とは四大天王の内の一人で、多聞天ともいいます。世界の中心にそびえるという須弥山の北側の中腹に住み、常に仏の説法を聞き、仏法の道場を守護するはたらきを持つといわれています。
法華経陀羅尼品では題目の行者を守護することを誓っており、法華経の諸天善神の一人として御本尊の左側の一番上に描かれています。
この神は「福」を得たり、戦さに勝利することを祈願する神であるところから、「福は毘沙門のごとく」と申されているのです。
「いかなる処にて遊びたはぶるともつゝがあるべからず。遊行しておそれ無きこと師子王の如くなるべし。十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかゝるべきなり」――皐諦女という方は、十羅刹女の中のお一人で、天上界と人間界との間を自由に行き来することができたので、何処と呼びます。つまりどんな処でも変幻自在に現れては題目の行者を守り抜くのです。
ですから、いかなる処であそびたわむれていようとも、身に危険が及ぶようなことはありません。ふざけたり、わざと危険をおかしたりしないかぎり、色んな形で守られていくのです。あたかもライオンが悠然として何物にも恐れないように振舞っていきなさい。
「ただし御信心によるべし。つるぎなんども、すゝまざる人のためには用ふる事なし」――ただし、御本尊のお力も、諸天善神の守護も、すべてはご自身の信心にかかっているのです。どんな名だたる刀でも、その人が気がすすまなかったり、これまで練習もしたことがなく、まるで赤ん坊のように使い方がわからなかったり、あるいは勇気がなかったなら、かえって危なっかしくて、何の役にも立ちません。
「法華経のつるぎは信心のけなげなる人こそ用ふることなれ。鬼に金棒たるべし」――南無妙法蓮華経の御本尊も、わが身ははかなくも、こと信心に関しては勇ましく、骨身を惜しまず信行に励む人が用いてこそ本来の用をなすもので、まさに鬼に金棒とはこのことなのです。
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」――この御本尊、ただの文字といってはなりません。『諸宗問答抄』には、「文字はこれ三世諸仏の気命なりと天台釈し給へり」(御書三六ページ)と申されています。
(引用文献:日蓮正宗本久山西大宣寺様HP2009年2月1日「色心」・「災いを転ずる御本尊 日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ日蓮が魂はこの御本尊に過ぎたるはなし」)
かなりの長文失礼致しました。全てコピペ、コピーアンドペーストです。一応、自身の所有の御書とも照らし合わせて考えてみました。非常に感銘を受けた次第です。
以上