Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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「信行学」の、「学」は、一番最後に位する大いなる意味

2023年05月16日 09時27分11秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 私は、学問が好きだ。だから、お寺での、日蓮正宗の学びの機会は、非常に大事にして、一番に重んじている。
 しかし、どう見ても、私の場合、学問偏重であり、学に凝り固まっている。
 これを、宗祖日蓮大聖人様は、どう、仰っているかと言えば、「信行学」と、その順位を、信じる事、信心が第一番目。行、行い、修行が、第二番目。そうしてからに、最後の、付け足しの、一番最後に、学、学問を、第三番目に、大聖人様は、置かれた。
 宗祖日蓮大聖人様、日蓮正宗では、信行が大事であり、学が最後に位置している。
 それは、その教え「事の一念三千」から来る事は自明の理であり、何よりも、仏法仏教は、実践にあり、学問では無いのである。ただ、自行化他に亘る、折伏行、仏道修行に、専念致さなければならない。
 だから、幾ら、学問が出来たって、何にも偉くも何ともなく、信じ行い続けて、実践し続けている人達には、叶わない。
 ハッキリ言って、学がなくたって、学も、第三番目にあり、必要なんだが、それよりも、「信行」の方が重んじられる。日蓮正宗では。
 これを見て、これを考えると、私などは、実に足らぬ者、であり、実践もしない訳じゃないが、全然足りていない。口先だけの、要らぬお世話の信徒であり、だから、この間も、「退転騒ぎ」を起したり、要らぬトラブルを招いたり、それらは、皆、実に、日頃の、勤行の大切さを全く知らずに、欠かしてしまったり、御題目が何と言っても、人と比べても、全く足りてはいない。そこが現在・現実の私の最大限のネックだ。自分自身の、ウィークポイントだ。
 屁理屈ばかり述べて、それじゃあ、誰も、相手になどしない。自分が自分で、情けなくなる。一杯モノを知っている、ただのガリ勉じゃ、此の宗派では、通用せずに、ダメなのである。何を差し置いても、善行、良い事の、詰まりは、『朝晩の勤行唱題の実践』に限る。そうして、『自行化他に亘る折伏行』のこれもまた、実践。実際、東京に、「実践女子大学」というのがあり、女だったら入学して行っていれば、「実践行」が身についたのであろうか?だったら、私も、その大学に、女であれば、絶対に行きたかった。
 ここで愚痴っていても、何も埒(らち)など開かぬ。こういう時にこそ、自分の自宅の、何の為に、仏間を用意して、御仏壇の御厨子、御本尊様が家にあるというのか。この、気持ちのやるせなさを、解消するには、ひたぶるに、一意専心になって、祈る為に、有るのが、御本尊様である。
 それも、日蓮正宗の御本尊様は、本物の、大した御利益がある、総本山富士大石寺の、大御本尊様に直結した、リアルに完璧に凄い、人生上、やっと巡り合えた程の、日蓮正宗には、大海原の、「一眼の亀」のたとえ通り、千年に一度、人間として生まれて来て、出逢えるか出逢えないかの、瀬戸際の、一生に一度出逢えた、非常に大事で常日頃から御護りしている、御本尊様なのである。
 これに願掛け、願いを掛ければ、こちらからの、信力・行力に応じて、御本尊様からの、仏力・法力で実際に還って来る、素晴らしい、御本尊様なのだ。
 だから、祈らなければ、自分が損なのである。一番良いのは、総本山富士大石寺の、奉安堂に御安置された、大聖人様が、実際に、鎌倉時代弘安二年十月十二日に御建立遊ばされた、「大御本尊」様に直接、御目通り、御祈りが叶い、出来れば一番最高なんだが、有難い事に、我が家にはその、創価学会第二代会長戸田城聖先生も言われた、「分身散体」の、正宗信徒の各家に御安置された、御仏壇の正真の日蓮正宗の御本尊様が、我が家にも居られる訳だ。
 これに、祈る。ただ、ひたすらに御本尊様の面前で祈るのみ。若しくは、家に魔が多くて、困っているなら、すぐそばに、我が家の場合は、存立する、菩提寺の末寺の我がお寺、かなり近所の、無量山寿海寺にまで行き、そこで祈って来る。これが出来得ると言う事は、何と素晴らしい事か‼
 だから、もっと、自身の境涯を高めて、素晴らしい人生として、夢を残らずに全て大願成就(だいがんじょうじゅ)させて、成し遂げていきたい。

 以上。よしなに。wainai


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