毎日、と言って良い程、母の関係の福祉の人達が我が家に来訪していく。
毎日毎日、とっかえひっかえ、人が出入りするので、かなり人疲れする。
一年前に比べて、私はかなりの自由を奪われ、失われた。お寺の信徒の先輩のS楽さんなどは、世界で一人だけのお母さんなんだから、おかあさん、おかあさん、と言って慕っていって、お母さんを大事にしてね、と仰っているが、これ以上、母中心の生活が強まり偏れば、私の時間が完全に無くなる。限界なのである。
福祉関係の人達は、うちの家計をも見ては探り、お金の使い方まで指導、指図していく。プライバシーなんて、どこの世界の話なんだろう。私は、一年前の、あの幸せだった日々を思い起こし、夢見るようになった。
思えば、自由にお寺に行けて、自由にハーモニカを習っていたあの時が一番の幸せな日々だったのだ。去年の暮れ辺りから、母が栃木の那須塩原市、黒磯鍋掛に行きたいと何度も入り浸るようになり、その交通費他で我が家は火の車になり、年末年始の母の腰痛、ギックリ腰、今年二月の家の前での腕の骨折等々により、不幸な今に至る。
思えば、これは母の宿業だと思う(私の宿業もあるだろう)。去年の十一月の大石寺の大御本尊様のお目通りの時、母は、あろう事か、狼藉の限りを尽くした。曰く、お数珠をふところに仕舞い込み、一時的に失くす。その場で売店で買ったお菓子を食べようとする(私がすんでのところで制止)、しまいには居眠り。余程退屈だったのか、私は連れてきた事を大変、後悔した。
それ以来、母の過去世現世で積んだ宿業因縁がかなり出始め、大石寺から帰宅数日後、倒れそうになったり、今年の二月十六日の日蓮大聖人の御誕生日に母の骨折だから、現罰が出たんだと思う。自業自得だ。
もう、母の余りに身勝手な我が儘に付き合うのも疲れて困り果てている私がいる。さりとて、私が看ないで、母一人子一人のうちの母を誰が面倒を看るというのか。
二十年前の、98年当時の母が写った写真が偶然、出て来た。その中の写真には、綺麗で若々しく、今とは別人のような母が写っていた。わずか二十年でこうも人の姿、性格、物腰が変わるのか。時間とは、余りに無慈悲じゃないか。
今では、家で起こす母の突飛な行動に、おっかなびっくりで対応する私。毎朝、大量の、母の洗濯物の始末に戦慄している。以前のブログ記事でも書いた通り、母と言う爆弾を抱えて、生きてゆかねばならぬジレンマ。誰かに助けを求めても虚しい。だから、私は御本尊様にお頼みする。今のこの苦を、出来れば取り除き給えと。
余り深刻になっても自分が惨めなので、表向きは笑って過ごす私なのでした。
御本尊様を根本に、一歩ずつ前進して行きます。返答コメント、有難うございます。