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進取究明。日々の雑感を気ままに綴る私なりに思い考え行い実践する不定期の記録。日蓮正宗とは一切関係なく私個人の見解です。

郡山市の者が、他市町村へ就職しようとすると…どうなるか?!

2023年05月20日 10時54分33秒 | 仕事労働、手仕事日本、メイドインジャパン環境日々仕事習慣勤労
 郡山市の私の様な者が、市外、須賀川市や、本宮市、中には、鏡石町等々で、働こうと(それ位、職場が当時の氷河期世代の私共には無くて、地方を堂々巡りをしていた)、していても、滅多に、仕事は見つからなかった。
 むしろ、バカにされた。郡山の方が、仕事が沢山あるでしょう(その当時から、無かったのです)、自分の、つまりは、私の技術、技量がないから、何か、人には言えない、いわくつきの人物、人財だからと、非常に警戒の目を持って、それら、郡山市外へ、就職を希望する、私へのものの目の見方と言ったら、非常に冷たいものであった。

 私は、母がその当時、車を運転してくれる事を前提に、自身も普通自動車免許は持ってはいたが、ペーパードライバーであり、会社へは、母が運転する事は打ち明けた事も多かったが、この時は内緒で面接を受けていた。
 とにかく、連戦連敗、受かった試しなど無い。それは言い過ぎであるが、大企業、高所得の企業は受からず、たまによさげな企業があったが、皆、中小企業であり、低所得、ブラック企業が受かる程度が多かった。
 それから、須賀川市の、国道四号線沿いにある、T印刷などという、悪徳ブラック企業、日本郵便、当時、郵政省が認定した、官製はがきなどを生産する会社に入れた。

 しかし、そこの女どもに、非情なる意地悪をされて、その場で、重いものを持つのは、必ず私の役目。他のそこの会社の人は、機械に任せて、重いものは運んだりしていたのに、私の側は、その機械がなく、私による人力で、運んでいた。

 ついに、私の体力も限界を迎え、はがきの、大量の印刷物を、落としそうになった。

 すると、その、一緒にペア(トリオ)を組んでいた、高齢女性二人が、「この男は、箸も棒も持った事のない、どうしようもない、人間なんだねえ」との酷すぎる嫌味を言われて、私は激怒して、もうこんなところでは、絶対働かない、勝手にお前らだけで、私の分も、重いものを一生担いで、ここで、骨でも埋めて居ろ!と言って、その場から立ち去ろうとした。

 今まで、重労働は、男一人の私に押し付けて置いて、いざ、それが、その重労働を、今度は又、人財探し、私が辞めたからって、一から探さなきゃならなくなる、その責任をそいつら高齢女子二人は、又新しい人が来るまで、最後は押し付けられると、責任を感じたのか、私を呼び止めて、「待て、待ちなさい」と言われても、後の祭り。

 私は「誰が待つか。この女郎(メロウ)。後はどうなろうと誰が知るか?!勝手にわめいてろ!このバカメロウ!」と言って颯爽とその場を改めて立ち去った。

 須賀川市ではこのほか、私が仕事探しで、ハローワークで探して、紹介を受けた会社がある。実際、四号線のそばの、大黒町にある、技術屋、というか、船の、船尾か、船首の、木工を作ったり、とにかく、木工屋の類の、私も一度、働いてみたいと思う程の、中小企業に、面接に行った。

 しかし、事前に、職安ハローワークで、そこの木工会社の責任者との、アポ、アポイントを取ったはずなのに、その面接日、その、担当者は、ドタキャンで、全く所在が知れずに、欠席して、居なくて、すっぽかされた。最初から、私は、足元を見られた訳だ。

 それで、私は、空手形で、その日の面接は、相手側によるこちらの大損失、大失敗が約束されたのは、面接を受ける前から確実・確定的だった。

 この当時、こういった、約束された日取り、日時の、敢えての、面接官の欠席、という、面接日の相手側の言い訳の有無の欠席、欠如欠陥は、良く行われた手口、これら就職氷河期世代の、業界の常識であり、買い手市場の為せる業であった。そんな事共は、日常茶飯事であった。

 初めから、就職就社させる気も、全くと言って良い程、無かったのであろう。

 そこの会社の面接も、履歴書を渡す場面も、全く無く、そんな、面接担当官もいない会社に、個人情報の履歴書を渡すのもおかしな話であり、渡さなくて、良かったと今は思い、そうして、私はただの、お客さん扱いであった。

 見学、と称して、そこの、木工の会社の内部を、私は会社の人と見て回った。

 船のプロペラの様な、立派な、いかにも船らしい姿の、木工製品を見て、思わず、私から「私もこんな会社で、働いてみたいです。」と言っても、そこの会社の方は、それは無理だ、と言わんばかりの、冷酷な程の冷たい無視で応えた。

 その反応を見て、私は、私の側の、勝手な、夢想、片想いなんだなあ、と、その時の、やけに冷たいその会社の人々全員の対応を見て、すぐに、見て取り、分かった。私は、招かざる客なんだと。私としても、情報漏洩を考えると、履歴書を、渡して来なくて、本当に良かったと、思い致した。

 須賀川の人達は、それ以外の、郡山市以外の人は皆、大都会の、郡山市へと、遠くても、就職を考えて、通いたがる。それが、一種の、名誉、ステイタスだとも、彼ら彼女らは考え、思っているようだ。「大郡山」、との、その、立派な大都会、大都市へと、誰も彼も、吸収され、追い付き、自分の人生の舞台として、華々しく、賭けてみたいと。

 須賀川市や、本宮市、大玉村、猪苗代町、田村市、小野町、三春町、舞木町、鏡石町、矢吹町、天栄村、等々は、実際の所、郡山市の周辺に位置した、郡山のベッドタウンだ。

 以前、須賀川市の、ハローワークに、母と、一緒に行った。その日に、見知らぬ女子達の、私より何歳か若かった、当時の私も二十代前半ではあったが、その時の、私と同じように、その場に仕事を捜しに来ていた、その須賀川市の女子二名の、キャーキャーその場で騒ぐ、それら、ミーハーっぽい、話題が非常に面白かった、個人的にも。

 それが、郡山の地名に根差したものであり、こんなやり取りであった。

 「郡山の地名って皆、カッコいい!並木、西ノ内、池の台、虎丸、長者、昭和町、清水台、開成、朝日、桑野、台新、堤下、堤、赤木、緑が丘、安積町、大槻、土瓜、富田…。何てカッコいいんだろう!いいなあ、あこがれるぅっ!」というものだった。

 それら郡山市の地名を皆、列挙して、郡山市に憧れて、郡山で働きたい、という、それら、須賀川市民の、切なる、郡山を熱烈に悲願・懇願するような、若い人達の憧れた気持ちが充分現れていた。

 それらの話に関しては、その場に母もその時に当然居あわせて、我が家に帰って来てから、母と私で思い出し話として、大いに笑わせてもらい頂いた。

 この、郡山が、どうにも、そんなに、田舎の人が、憧れ仰ぐ街、都市だとは露も知らずに思いもせずに、関東地方の日本の首都・東京都に憧れるならまだしも、こんな、郡山市くんだりが、本当に?という、その唐突さに、そんな人種もいるんだと、母と一同、私自身も、大きく笑かしてもらった。まるで、ギャグ、お笑いに相違ない、違いないと。どこかの、何かの間違いか、とも。

 そうした意見で、母とも一致を見た。余程の、東京じゃなくても憧れる位の、郡山で満足し出来得る、相当、余程の田舎者なのだと。認識が出来た。母との、それに関して家に帰ってからの、思い出し・大笑い、笑い話の元とはなった。

 敢えて、笑いを取る為にやってるんじゃないの、との意見も母との話で出たが、それにしては、笑い声一つ立てずに、あれだけ真剣になってあの女子二名は、行なっていたので、やっぱり、本気本当なんだろうと。

 それだけのネームバリュー、インパクトが、郡山市には、他市町村からは、当時から、あったのだ。

 私には、そんな郡山の土地の地名なんて、普通の当たり前であり、何の憧れも、何の取り柄も無い程の、普通に普段から、何にも感じない程の、違和感も、自意識も、憧れもなくて、そんな事なんて、考えた事も全く無かった。それを、素晴らしい土地名だと、ベタ褒めの、褒めまくりの、一瞬褒め殺しなのかとの、思いを懐いた、あの須賀川職安に居たあの若い女子達…。

 よっぽど、私は、実は、恵まれた、郡山の周辺にいる人々が羨む程の環境下に居るんだと、思い直した。

 だけれども、それら、郡山の周りからは、郡山へと、働きに来るが、その弊害で、私の様な、その逆の、反対を行く、郡山以外の周辺の土地に、憧れをもっているのに、それら田舎で、郡山以外へと、就職しようとする者への、それら周辺土地人の、私への風当たり、差別感と言ったらなかった。

 実際に、須賀川で働いていた時には、その面接時から、何だか、落ち武者、都から逃れて来た者、都落ちして来た者、とのおもむろな、レッテル貼り。ただ、田舎に憧れているだけなのに。そういった、変わり者かも知れないが、田舎が好きな人も、実際居るのに。

 私には、そんな、郡山市と、その周辺都市との、格差がある事が、ここ最近において、漸く分かってきた。

 もう二度と、須賀川くんだりなどの、郡山市以外へは就職などはしない。したくはない。そう思い決めた。実にバカらしい話。こちらが軽く見下され見られて、郡山で通用しないから、こんな、須賀川辺りに来てるんだろう、と、全く、見下げた目で見られるだけだった。もうそんなのは、嫌だ。こりごりだ。郡山市内で結構。もう、郡山一択だ。

 皆が郡山を目指して来るから、反対に、交通渋滞には巻き込まれずに、反対の車が空いた道、反対車線を悠々と行けて、良かったのではあったのだがねえ。私は、一風変わった、モノ好きにしか、見られなかった。どの会社、郡山周辺の人達それら人々にも。

 
 福島県内の多数、郡山市やその周辺の人達は、こちらが謙遜、へりくだって言ってるのが、全然判らない傍若無人の不躾無礼な輩、が多い気がする。こちらは、額面通りに、へりくだってるのに、全然、それが認められない。むしろ、その頭を下げたからって、それだから、お前の価値はゼロなんだ、と言いたげな、言説・言動・考えは今日を以て辞めて欲しい。そんな無作法なやり方は、東京を含む関東や日本全国じゃ通用しないから。

 ちょうど、東北南部の、無アクセント地域、平板なアクセントの、地域と、重なる。それら、敬語を使って、敬語が通用している日本全国の地域と通用しない地域、詰まりは福島全体が、敬語が発達せずに人を全く敬ってはいない、人様の謙遜の情をないがしろにはしてはいないのか。そんな危惧の念慮もいだく、今日この頃。
 
 親しき中にも礼儀あり。田舎、方言の敬語抜きの友達まがいのフレンドリーさと、敬語で他人様を、或いは御両親御兄弟御親戚、等々、を敬うのとでは、福島は、親しく人に近寄っては来るが、決して他人様を敬ってはいやしない感覚を受ける。そこが、いなかっぺの、限界性なのだ。解っているのか、本当に。

 いつも、長文失礼仕ります。御無礼を御承服願います。

 以上。よしなに。wainai

創価学会員への折伏教本、第二章、最初の方

2023年05月19日 12時02分11秒 | 朗読版・折伏破権門理邪教破折日蓮正宗御本読上げ勉強趣味(楽器演奏)動画特集
創価学会員への折伏教本、第二章、最初の方
世の迷える、創価学会員達への日蓮正宗からのメッセージ。解る人には、解ります。その間違い、おかしな点、雰囲気からして、間違えていると。私がそうでしたから。生き証人でもなりましょうか?!尚、もらい交通事故まがいの後で、首が痛い関係で、首を傾げて居ります。昨日、整形外科医院へ行ったばかりで、まだ治っては居りませんが、頑張って居ります。 以上。よしなに。wainai

私は、作歌、短歌を作り、詠みました。短歌、和歌

2023年05月19日 00時20分57秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現批評する。川柳俳句鑑賞
 私が作った和歌、短歌集、その一。五月十九日、午前〇時過ぎ、歌を詠む。

 軍歌聴く 皇御国(すめらみくに)の行く末が 非常に気になる今日のこの頃

 英国に ビートルズというバンド有り 世界を相手に ギターで戦う

 ビートルズ 幾つ世代を 経ようとも 今だ変わらぬ その心意気

 ジョン・レノン 妻のヨーコと居りし時 世界で一番 幸いな人かな

 大石寺 世界に誇る 大伽藍 広宣流布の 時はいつぞや

 この世界 悩みの多き人で満つ 日蓮正宗 世界を救う

 この間まではキリスト信じてた 底の浅さに驚き禁じ得ず

 キリスト教 統一教会 顕正会 創価学会 セクトは変わらず



この辺で、この辺にして、本日は、いの一番に、ぐっすりと、お休み、眠らせて頂きます。
皆様、良い夢を。お休みなさい。

以上。よしなに。wainai

福祉団体・S協の横暴・トラブルに怯えた日々・春三月

2023年05月18日 06時57分42秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 私の家に以前、S協(郡山市S会福祉協議会ヘルパー部門)という、ヘルプサービスで、調理・料理の手伝いに来ていた、K谷、という下っ端ヘルパー女性が居た。

 その女性と、K名という、これは責任者、主任である。

 その時、何故か、私の年齢の、事で、話の中心になった。

 その時、K谷、という、このヘルパーは、私の年齢をきいて、「もう、五十なんて、相当な、ジジイだばい!(福島郡山弁)」と、おもむろに言われた。

 その場には、その、K名、という、S協の主任までいたのだから、言わなかったとは、言わせない。言質は、取れている。

 あれで、あの一言で、私はその日一日、イヤな気分になったし、その言葉に打ちのめされていて、いまだに、トラウマにもなっている。

 あの、K谷という下っ端ヘルパーは、六十後半らしいが、七十にもなる人に、そんな事を言われてショックで、心外だった。若い人に言われるならまだしも。そんな年上に。そうして、それでも、微妙に、年齢には、私自身、非常に苦にして、気にして、気にはなっていて、ナーバスになっている現在の年頃なのである。

 とにかく、その、K谷、という人は、この間の、私達、私のヘルパー事業と私との、トラブルの元ともなった、問題ばかりを起こす、私と逆の意味で、トラブルメイカー、今回の事で、重要なカギを握る、始末の悪い、女性なのである。

 実に思い出させるのは、サービス事業中、ヘルパーの掃除の手伝いの最中に、どんどんうちの我が家の、別の部屋まで、余計に掃除を、大盤振る舞いでやった積りが、私は一部屋だけで充分で、掃除をそんなに手広く、やらなくていいという注文を出しても、この人は言う事を聞かずに、そのまま、パソコンの電源に、足か、掃除機の柄のどちらかを引っ掛けて、パソコンの通信がおかしくなり、パソコンを壊しかけた、張本人でもある。

 私は、申し開きを今、ここでするのもアレだが、女性歌手・「柴田淳さん」の、三時間五十何分に及ぶ、彼女の二十年間の集大成のブルーレイを、その三月の週の土曜日に、うちに来たそのK谷ヘルパーさんに見せたのが、大間違いの大本根本だった。この高齢女性に見せなければ、少なくとも、未だに、S協だけでも、契約期間は、続いていただろう。

 ただ、M光は、この期に及んで、勝ち馬に乗るのが目当てだったように思えてならない。だって、余りに、S協との、協調関係性、情報共有のシステムを最大限利用し尽くした、有り様が、魂胆が、分かろうというものだからだ。首尾よく意のままに操る、両社ともに、意地悪な奴らだとしか思えない。利用者一人を、二社で、同一に、振舞おうとはね。

 その下っ端スズメの、K谷ヘルパーが、その、サービス施行中の、約一時間にわたって、それら、私が大ファンだといった、柴田さんの悪口・文句を、きっと、姑ババアならば、こうやって、嫁いびりをするんだろう、という位、口を極めて、文句、悪口雑言、罵詈雑言の限りを我が家において繰り広げた。私が聞き捨て成らぬ位、程に。私はその期間、我慢を強いられた。際限のない程の、口汚い、その人間の性悪の薄汚い根性に、こちらの心、精神までが、汚染されそうになる程だった。ハッキリ言って、本当は、その美しい歌声、美貌に、うらやましくて、敢えて、失点欠点のない、完璧性の有る、柴田淳さんに、何とかけなす所がないかと、そちらから待ち構え受けて、ケンカを売ったんだと、今は私は、思い返す。

 あんまり、尊敬出来得る、人物でも、そのヘルパーは、無いよ。ハッキリ言って。中学校卒臭かったし、美容師の仕事もしていたが、仮の、お手伝い程度であり、正式の国家資格免許の、美容師免許などは、全く持ったり取ってはいなかったらしいしね。

 すぐに、どこかの、利用者の話を、これは、どのヘルパーも、皆、誰も、同じではあったが、守秘義務なんて、無きが如し。皆、どこそこの家庭で、こんな事、話があった、という返事、答えばかりをする、所構わず。だから、私は、ヘルパーは皆、秘密を守れない、そこらじゅうで、チュンチュン鳴いている、「スズメ」と同じだ、とハッキリいうのだ。 

 そうして、そのヘルパーに、「ブルーレイってわかる?」と聞くと、何それ、分からない、との答え。

 要するに、最新式の、映像システムに、なーんにも、自分の知識が付いて来ないのだ。

 DVD・レコーダーは辛うじて、知っていて、その、K谷という人の家にもある、十年以上前に買った、と言った。

 おそらく、K名という主任の人ですら、ハッキリ言って、それらの知識など皆無で、オーディオビジュアル事情・関係も、おんなじようなものなんだろう。似た者同士で。結託し合ってて。

 だから、一時間に亘り、K谷という下っ端ヘルパーが、ヘルパー時間の実践実行中に、ずうっと、そのアーティストの文句を言っていた、と直接K名という人にクレームをつけて言っても、一切信用せず、そんな、一時間も、おんなじことで、文句を言う人なんかいない、と、まるで、私がウソを申しているかのような、ハッキリ言って、「決めつけ」で、この、事業所は、動いているんだと、明らかにそうと思い致した。ハッキリと分った。この事業所は、その時点で、「利用者・クライアント・ファースト」じゃなく、自分らが主役、と思い致しているのだ、との、諦めの境地が、私に次第に生まれて行った。

 DVDならば、そんなに、映像が大容量じゃなく、安価である。それに対して、ブルーレイは、大容量・高画質・高価である。それに対して、逆恨みも、その下っ端ヘルパーにも、勿論あったのだとしか思えない。

 とにかく、これら、女を中心にした世界の、女稼業・ヘルパー事業の、限界性を見たような、ただの失望を感じた日々だった。今太閤の如くえばり腐った、それら諸々の仕事の将来性の無さを、おそらく、十年後には、それら事業所は潰れていて、何者かに取って代わられている事だろうと思い致しながら、可哀想な人々、と思わず皮肉の意味で、正直、同情の念を懐いた、私の春三月から四月への、或る一日の出来事であった。

 以上。よしなに。wainai

※PS、編集後記、文章の付け足し、自身の反省・自戒の念をも込めて

 本当に、私も、ある、お寺の人だか、別の福祉業に携わる方に御忠告されたが、私が、いつも、福祉の人が来ると、音楽が掛かっている。それが、問題の元であり、音楽の趣味が、私とは違う方々も、沢山、それこそ、一万人いれば、一万人なりの、趣味嗜好が、志向が、違う人、方がいるのが当たり前なのが、この世の真相、実相、実態なのである。

 だから、それを非常に御注意・御忠告なされて、音楽というものも、それら、他人(正にそうである。私は、今は施設に居る母親が我が家にいた頃と同様な気分で、音楽を掛けていた)への、趣味嗜好も、十分考慮に入れないと、充分な注意を改めてしないと、そういったトラブルに巻き込まれかねない、と、今回の事で、重々、警戒なされて言われた。

 私は自分なりに、思った。

 カラオケ等の歌が、人の前で歌う事が好きな人と、嫌いな人がいるように!

 同じように、カラオケ等々、自分で歌うなど、以ての外。聴くのも聴かされるのも嫌だ、迷惑だ、という方々も確実に居られる。

 その音楽を聴く時間帯、その場のシチュエーション。時・場所・場合、等々。その場の雰囲気。その音楽を掛けて、歌っても良い、環境下にあるのか。果たして。という、自己反省も、大いにある。これらが、今の自分には、全く欠けていたのではないのか。

 音楽にも、好き嫌いが、ハッキリと、別れるから、自分が大好きで、人に勧めたくても、人の好みは、千差万別、相当違い、音楽においては、格差、というか、差別・序列が厳然としてあり、それを押し付ける事など、誰人にも、勿論私にも、絶対に出来ない、出来得る筈が無いのだ!それは、非常に失礼無礼不躾、極まりない。

 音楽をこちら側から強制するならば、それは、拷問にも近い、等しいものともなり得る、事も有り得ると!

 音がしない、無音が好き。音楽や、映像の音、とにかく、音が鳴るものが大嫌いな人も、事実、実際上、確実に存在する。

 私も、自身が集中力を必要とする時、実際に、音楽やラジオテレビ類は、必ず止める。

 こうしたブログの文章などは、音楽、ラジオ等々を聞きながらの執筆も有り得るが、大事な方、母親への手紙の執筆等々には、当然、それらのウルささに辟易しつつ、集中力を削ぐために、それらを必ずに消す。

 自身が最も大切にする、お祈りのお勤め、日蓮正宗の朝夕の勤行の大事の時なども、最大限、非常に音に気を使い、一切、実際に祈っている最中には、自分の読経唱題の声のみ、それに徹する。それら、音の出る機械類、趣味、楽しみ事等は、絶対に必ず止めて、停止させる事を常とする。それが祈る者にとり、非常に当たり前な話、当然の帰結、大前提であろう。

 実際、私が今も籍を置く、作業所では、音楽ラジオ厳禁、となっているし、今どき、音を立てて良い作業所など、皆無だろうと職員さんは言う。音は、仕事の邪魔なのだ。

 私が非常識にも、音を立てて、そのヘルパーに刺激を与えたのが、全ての諸悪の根源、原因なのだろう。おそらく、ここにおいては。

 けれども、私の言い分も言わせてもらえば、そのヘルパーも、一言、余計で、大袈裟、お節介だった。余計な、外野の意見を聞かされた。こちらの気持ち、意見も、聞いてくれ。こちらが嫌だと思い、その時間を無理矢理過ごさせられた。あのイヤな気分を同じく味わえ、味わってみろってえの、その主任も、そこの、ヘルパー一同全員、皆も。その時間は、こちらは、地獄を味わったのだから。本当に。大概にしろって。

 結局、自分にとっては、月曜、木曜、土曜日と、これら、諸ヘルパー事業に関わった、それら、ヘルパーの人らに、私の重要な時間を、何時間も割かれて、不自由をしていた時間から解き放たれて、今は自由時間を味わえる。そういった、自由な身分へと、福祉の、まるで奴隷だったかのような。それこそ、心底から、福祉に骨抜きにされた、でくの坊のような自分から、覚醒、生まれ変わった程の、人生に革命がおこったが如くの、生活上の変化、良い兆しが生まれて、これが立ち上がり、出来上がったのであるから、こうした、文句を言っても、しょうがない。むしろ喜び、感謝を捧げるべきだ。

 原因結果の追求も、もう終わった事であるので、これ以上、もう、拘らない。この他の福祉事業所、M光産業、も、同じような、ボタンのかけ違いに因る、双方の、言い分もあるのだろうが、私の言い分も是非聞いて欲しかった所だが、言っても聞かない事業所に、何言っても今の段階では無理であるからして、これにて、このどうしようもない、話の顛末は、これにて打ち止め、終結する事とする。


 まあ、バカらしい、阿保らしい、事業の利用者・クライアントとしては、何一つメリットなど一切なく、最悪の被害の結果をもたらし、生み出した、その福祉業者たちの、ケツのまくられ方の、こちらが一切のバカを見た、生活支援事業所の所業であった。

 全ては、後の祭り、である、後の祭り、であった。惜別の情は、この際、全く要らない。最初だけ騒いで、関係を作るよう持ち掛け、保ち、その後は、一切が、掛けたはしごを外される如きの、無情な程、無関係となった。福祉など、無責任さでは、一切、皆、同じ様なもの、なのであろう。一切、貴方とは、関係など、無いのですよ。として、最後通牒を突き付けられる関係性。最初だけ、大袈裟に、契約等々を結んで、次第に増長し、慢心して、最後は、打ち捨て投げ捨てられる特殊な関係性。

 情などは、通うようで、一切、通ってなんかはいなかった。その関係性に、一抹の不安感をその間、いだいた。一縷の望みをいだき、その非常に細い、今にも切れそうだった繋がりに、私は自身の未来を、私の現在の生活を唯、一心に委ね託していた。愚かにも。

 今は唯、寂しい。本当に、心配してくれていたのは、私、利用者・クライアントとの、関係性があった時のみだったんだ、とのみ思う。それら福祉産業の非情性を思う。現在の、偽らざる、自分自身ではある。あの最初に取り交わした、契約上の、冷たい、冷徹な、非情ともとれる、紙一枚で、物事は動いてしまっていたんだという、その実際の事実上の、如何ともしがたい、現実感。

 親子の関係性、家族の関係性。それらを模倣した、その日のその時間を以てして、アットホームに、家族的に振舞うが、時間時限が来れば、あっさりと、今までの言説・言辞がウソのように、我が家から皆、判で押したように、これで御仕舞にして自分の家に当然の如くに帰ってゆき、今さっきまでの態度とは逆で、打って変わって、裏腹で、突然、当たり前の如くに、去り果ててしまう。その、二重人格、偽善者の様な、人当たり。

 一般的に、その時の、置いて行かれた時の、置いて行かれた者だけが何度も味わう、寂寥感。寂莫感。ただ、寂しい。そういった、寂しいという、感覚のみが毎回、私の胸中には残る。自分一人だけの、一人しかいないんだとする、孤独感。孤立感。誰も、私の味方はいないのか、との、永遠に続くかの如くの、限りの無い程の、自己批判、自問自答。自責の念慮。全ては、自己自身の、孤独感・孤立感に、端を発する。

 これを聞いて、これを思うに、これは、買い物・料理を作ってゆく事だけはしてゆく、疑似家族、模倣家族に外ならず、実際には、当たり前だが、家族でも、自身の眷属でも何でもない。唯の、赤の他人を、我が家の家の敷居を跨がせ、平気で入れて、私は今まで、家族同様にして、平然として、当たり前に奉っていた。

 道理から考えても、そんな事、自明の理である筈なのに。契約上の、関係性。どんなに相手に、ほめそやされ、アットホームに思わせぶりに、触れ回られ、フレンドリーに、そんな振りをされたとしても。

 正直な所、実際上は、そういう事、世の中、皆、他人の人々だ。そういう事は、一人っ子の私には、疎すぎる程、世の中というものを、知らなさ過ぎた。お人好しを、地で行っていた。余りに無知で愚かでバカだった私…。

 悔しかったら、自分の腕一本で家族をこさえてみろ、という話。自分自身の家族を作ってみろ。それだけの、事が出来てから、ものを申せ、という話。決して、あの人らは、自分の家族が他にも、自分の家庭というものがあり、その家族を守る為、稼ぐ為に、私というクライアントを、利用し、踏み台にして、お金をもらっていた。ギブアンドテイクが、そこには、成り立っていた。それが真理真実。

 全ては、あの契約書の言われる通りの、通り一遍の関係性だったと、ハッキリと、分かった。気付くのが遅かったけれども。世法は、仏法の一分であると。ハッキリと自分で、確証した。

 
 まあ、この、福祉産業・業界の仕組み、成り立ちも、私は直接は知らないが、ただ、我が家に来ていたそれら、福祉の会社組織の成員の話などから聞いてみても、余り、将来性のない、成り手の乏しい、事実、ブラック企業のようでもあり、誰一人、新入社員としても、入社就職はしたくはない程の、入社したい人など全くいない。

 初めからガン無視、新規採用をしていても、若い人からは魅力ある職場とは最初から看做されない。その噂を聞きつけて、その場の、その会社の、超高齢の、ベテランばかりがのさばり、誰も来ずに、誰も成り手のない、入りたくもない、入ったら地獄が待っている。そんな感覚を受ける。

 入ったら非常に酷使される、就業規則、体系の、とにかくこんな会社には入りたくはないという万人の暗黙の了解。若手が誰も入っては来ない。事実はそれらが全てを物語る。暗黒の、それが福祉産業業界の闇の実態だな。とこれは、私の様な利用者側からも、確実に言える。これはひとえに感ずる、事実・実際上・実感である。

 毎週、毎回来ていたヘルパーさん達の愚痴等が、ここには、若い人達は、絶対、嫌って、一切、新入社員がいない、来ない。募集してても、来る人など皆無、それ程のブラック。成り手が何と言っても、初めから居ない。との、もの好きだけが、この事業をやってるんだ、との苦情を皆が皆、申していたのを、これを聞き、これを見て、これを考えた上での、それだけでも、その将来性に不安を感ずる。未来将来、明日のその会社の存続自体が果たして有り得るのか、が危ぶまれる程の、の究極の畏れ、の、どうしょうもない、税金の大量投与等でそれらが成り立っている。それら産業、事業所群の、諸行無常の、風の前の塵に同じ、の、一端とはなるわな。

 まあ、それら諸事に、それら会社の未来などに、私が心配している事も無い訳だ。なるようにしか、ならないのだから。運命が如何に過酷だろうと、自業自得なのだから。それ相応の未来しか、残ってはいはしないのだから。


 非常なる、長文駄文、失礼仕りました。

 自身も非常に、今回の事で、後悔、困惑、迷い、寂寥感、一人ぼっち感、等々、感慨・感想等、思い至る所、等々が多々、あったものですから、この度の様な、長い文章をしたためる結果、次第となりました。

 皆皆様、御無礼、御許し下さいませ。

 けれども、言いたい事共は、全部、腹の底まで、言い尽くし、吐き出せました。

 今は非常に気分が楽になりました。今現在の気持ちでは、心は平安、安楽安泰であります。

 ここまで自分を導いてくれた端緒となったブログという文章作成記録記憶装置媒体に対して、感謝を申し上げ、捧げます。

 最後まで読んで下さった方にも、誠に、有難う御座いました、と言いたいです。
 
 再度。以上。よしなに。wainaiより。

私も短歌を極めたい

2023年05月17日 21時01分41秒 | 短歌・和歌・作歌、歌会。歌を作る、短歌を味わう。表現批評する。川柳俳句鑑賞
 今日、近所の公民館、通称、ふれあいセンターに用事があり、行くと、そこに、或る小さなパンフレットが目に入った。
 そこには、公民館で、短歌の歌会、短歌講習会がある、という、触れ込みだった。会費も無料、との事。
 私は俄然、興味を持ち、そのパンフを持ち帰った。
 そうして、電話番号に電話すると、男の方が出て、一首、二首位の、歌を持ち寄って、皆、講習しあい、品評し合うという。
 そういう話を聞いて、私も非常に、やってみたい、と思った。
 その話を、同じく、俳句教室で、福島県白河市の、句会に通っている、栃木のKさんに電話すると、いいじゃない、品評し合うのも、非常に勉強、学習になるんだよ、と仰る。
 そうして、私が、何かを表現しようと言う事に、Kさんなりに、喜ばしい事、との期待の声が、声質からも判る。実際に、Kさんは私に、短歌・和歌を作り、紡いでいく事を、勧めてくれている。
 私は聞いてみた。Kさんは、日頃、どんな思いで、どんな気持ちで、俳句を作っているのか、と。
 すると、こんな答えが返って来た。
 仮に今、自殺をしようと考えている人が居るとする。その方が、たまたま自分の俳句を読んで、自殺を思いとどまった、そういう、人を救えるような俳句が作りたい、と。
 私はビックリした。いきなり、そういった話の展開になろうとは、露にも思わなかったからだ。
 確かに、それが、そうありたい、と常々、私も望むのだが、私の場合は、そこまではいっていないかなあ、との、非常な恥ずかしさも、情けなさも、持ち合わせて、考えさせられた。
 この歌会は、非常に自分にとり、参考となった、短歌・和歌の歌会である。何とか、短歌が、人並みに、最初は下手でもしょうがないが、上達したい気持ちで、一杯だ。

 以上。よしなに。wainai

もう、音楽は、アップル社一択、アマゾンよ、おさらば!

2023年05月17日 18時07分54秒 | クラシック洋楽日本邦楽演歌雅楽江戸明治大正昭和平成令和現代歌謡伝統音楽集
 今日、性懲りもなく、アマゾンカード千五百円分を買い、うちで、一曲だけ、音楽をダウンロードをした。
 それから、アップル社の音楽ソフト、iTunesへと、移設、移行を試みたが、まるでダメ。全然、あの手この手を使っても、埒が明かず、ダメ。
 いっそ、アマゾンの方が詳しいだろうと、アマゾンミュージックの担当コールセンターに電話で聞いてみたら、外人が出て来て、もう、規約で、iTunesへのダウンロードは、認めてはいない、出来ない、不可だ、との返事を受けた。
 それで、私は、もう、アマゾンでは、音楽の楽曲は、決してダウンロードしたりしない、二度と買わない事にする、決めたから、結構だから、と言って、最後通牒を突き付けて、あっさりと電話を切った。
 アマゾンは、音楽囲い込み作戦に、これは出たんだな、と思った。バカな事をしたもんだと。
 私も、今度からは、アマゾンなどは本当に利用せずに、音楽は、シンプルに、楽曲のダウンロードのみは、アップル一択としたい。そう決めた。
 実は、アップル社の方が、商品券にあたるカード券の最低購入金額が、千円からと実に安く、リーズナブルではあったのだ。Amazon券だと、千五百円からと、五百円も多く取っていた。
 もう、勝負は、ついたようなもの。音楽を買うならば、アップルの勝利!Amazonで購入していたのが、バカらしく思えた今日の出来事であった。

※編集後記
 もしも、どうしても、実物の、地元のCDショップにも売っていない物、形としてあるCDのディスク盤や、アマゾンキンドル、即ち、本の、電子書籍を購入する時、他、以外は、もう、アマゾンでは一切、買わない。

 電化製品も、地元郡山市の、私の場合は、「ケーズデンキ」で最高に事足り、現物を見た上で実際安心して買えるので、それで済ます事が最近も増えて来た(事実、この間も、記憶媒体で、500GBのSSD、記憶媒体を、七〇〇〇円にて、ケーズデンキで確か先月買った。Amazonでは、記憶媒体は、ニセモノをつかまされ、騙されたから。二度と買わないアマゾンでは)。

 書籍も、地元の最有力大型書店、「ツタヤみどり書房桑野店」で、買い求めればよい話。

 本が、CDが無くても、注文してでも、待てばみどり書房でも買える。愛するモノには、手間ヒマを掛けないと。

 地元への地産地消の素晴らしさ。何も、アマゾンにばかり、こだわり、依存している必要性も、全く無い。

 とにかく、ツタヤみどり書房では注文しても絶対に手に入らない、現物の、CDディスク以外は、音楽・楽曲は、一曲一曲単位、アルバム単位、アップル社一択のみ。これがこれからの原則・音楽への源流潮流となる。私なりの取り決め、決まり事、となった。

 これは、良い機会なのだ。Amazonの依存性から、脱却を図る、それへの、前段階、フライト、離陸だと捉えると、良ーく判る。

 こうして、アマゾンキンドルファイア、等という、アマゾンが生み出した、依存からの脱却が今、望まれる。別に既に持って居るものなので、大事に使うが。もう、アマゾン依存は、辞める位の気概がないといけない。私にも利益メリットが何もなくなりつつあるのだから。

 それから、地産地消の、何も、GAFAM、とかいう、海外多国籍ガリバー企業の一角の、「アマゾン」なんて一つの会社にばかり、おんぶにだっこ、ぜーんぶ頼っている事など何もない。今から依存を弱めて、辞めるべきであり、利用するにしても、極力、最小限にとどめたい。本当に、何度も言うが、これは、良い機会である。向こう側から初めに仕打ちをけし掛けて、一方的に打って出て来た。提案、模索してゆく事を、明にしろ暗にしろ、私へと迫(せま)って向かっては来たのだから。こちらも受けて立とう。

 「アマゾン」も、最近のニュースを見ると、赤字化により、人員削減などの、非道の、会社の社長・幹部だけが生き残ろうとする、最悪の人事等が行われていると聞いた。この会社が、百年後、否、三十年後二十年後、否、十年後ですら、果たして、有力企業、今現在の、多国籍企業として、存続しているのかは、誰の目にも、神にも仏にも判らない。誰にも判らない。その経営次第では、経営者次第で、「転落」の道も、有り得るのかな、と、今の私は考えて、確かに思っては、いる。

 今から、二十年前位の、あの、一大企業、「山一証券」という、大学生らがその頃、当時も以前からも、誰も彼もが、就職先の第一番手として、目指したという、大企業の、情けない程の、倒産の当時の状況を見知った者から言わせれば、当然の成り行き。考えの終着点は、そこに行きつく。真実なんて、あっけない程に、誰にも判らない。成るしかない、という世界の、御話。

 この世に、絶対なるものは、何も無い。ただ、日蓮正宗総本山富士大石寺奉安堂に御安置、厳護されている、「三大秘法の戒壇の大御本尊」御戒壇様のみが、永遠性を誇示した、御力のある、我らの御宝前の、最高の宝物・財宝である事は、言うまでもない。

 今どきの流行りは、サブスク、サブスクリプション、等々、ネット上の、またはそれ以外の、定額サービスが流行っているから、今の私のように、一曲一曲、CDを一枚二枚と、楽曲を買い求め買い取る人を見て、笑って居る人もいるかも知れぬが、それらが、その当人が仮に亡くなった後に大禍根を残す。いわゆる、「デジタル遺産」が今、最大限・最大級の、これからの、今を生きる人々にも共通して当てはまる。大問題が横たわっているのを、聞いたり目にした人々も、多い事だろう。

 私の様な、独り者は、誰も、そんな心配をしてまで、サブスクなどに、お金を投ずるわけにはいかないのである。私には今家族がなく、母は施設暮らし、母は勿論、PCも、動かせずに、機械には弱い。

 誰が、その後の責任を取るというのか。無責任では、いけない、いられない。それらが、今の時代の、非情非常、無情なる、それら、「デジタル遺産」の弊害、害悪、諸悪の根源が、それら、サブスクリプション、なのかも知れない。


 話しは例により、かなりの脱線をしてしまったが、そんな事共を、私なりに本日は考え、想い致した、今日この頃である。

 最後に、今まで世話になった(というより、逆に反対に、こちらが世話をして来たような、まるで顧客そのものだった。)音楽ダウンロードでの、アマゾンよ、おさらば、である!

 改めて、長文失礼しました。

 以上。よしなに。wainai

「信行学」の、「学」は、一番最後に位する大いなる意味

2023年05月16日 09時27分11秒 | 日蓮正宗総本山富士大石寺・御宗門・その御教え・教学・信行学
 私は、学問が好きだ。だから、お寺での、日蓮正宗の学びの機会は、非常に大事にして、一番に重んじている。
 しかし、どう見ても、私の場合、学問偏重であり、学に凝り固まっている。
 これを、宗祖日蓮大聖人様は、どう、仰っているかと言えば、「信行学」と、その順位を、信じる事、信心が第一番目。行、行い、修行が、第二番目。そうしてからに、最後の、付け足しの、一番最後に、学、学問を、第三番目に、大聖人様は、置かれた。
 宗祖日蓮大聖人様、日蓮正宗では、信行が大事であり、学が最後に位置している。
 それは、その教え「事の一念三千」から来る事は自明の理であり、何よりも、仏法仏教は、実践にあり、学問では無いのである。ただ、自行化他に亘る、折伏行、仏道修行に、専念致さなければならない。
 だから、幾ら、学問が出来たって、何にも偉くも何ともなく、信じ行い続けて、実践し続けている人達には、叶わない。
 ハッキリ言って、学がなくたって、学も、第三番目にあり、必要なんだが、それよりも、「信行」の方が重んじられる。日蓮正宗では。
 これを見て、これを考えると、私などは、実に足らぬ者、であり、実践もしない訳じゃないが、全然足りていない。口先だけの、要らぬお世話の信徒であり、だから、この間も、「退転騒ぎ」を起したり、要らぬトラブルを招いたり、それらは、皆、実に、日頃の、勤行の大切さを全く知らずに、欠かしてしまったり、御題目が何と言っても、人と比べても、全く足りてはいない。そこが現在・現実の私の最大限のネックだ。自分自身の、ウィークポイントだ。
 屁理屈ばかり述べて、それじゃあ、誰も、相手になどしない。自分が自分で、情けなくなる。一杯モノを知っている、ただのガリ勉じゃ、此の宗派では、通用せずに、ダメなのである。何を差し置いても、善行、良い事の、詰まりは、『朝晩の勤行唱題の実践』に限る。そうして、『自行化他に亘る折伏行』のこれもまた、実践。実際、東京に、「実践女子大学」というのがあり、女だったら入学して行っていれば、「実践行」が身についたのであろうか?だったら、私も、その大学に、女であれば、絶対に行きたかった。
 ここで愚痴っていても、何も埒(らち)など開かぬ。こういう時にこそ、自分の自宅の、何の為に、仏間を用意して、御仏壇の御厨子、御本尊様が家にあるというのか。この、気持ちのやるせなさを、解消するには、ひたぶるに、一意専心になって、祈る為に、有るのが、御本尊様である。
 それも、日蓮正宗の御本尊様は、本物の、大した御利益がある、総本山富士大石寺の、大御本尊様に直結した、リアルに完璧に凄い、人生上、やっと巡り合えた程の、日蓮正宗には、大海原の、「一眼の亀」のたとえ通り、千年に一度、人間として生まれて来て、出逢えるか出逢えないかの、瀬戸際の、一生に一度出逢えた、非常に大事で常日頃から御護りしている、御本尊様なのである。
 これに願掛け、願いを掛ければ、こちらからの、信力・行力に応じて、御本尊様からの、仏力・法力で実際に還って来る、素晴らしい、御本尊様なのだ。
 だから、祈らなければ、自分が損なのである。一番良いのは、総本山富士大石寺の、奉安堂に御安置された、大聖人様が、実際に、鎌倉時代弘安二年十月十二日に御建立遊ばされた、「大御本尊」様に直接、御目通り、御祈りが叶い、出来れば一番最高なんだが、有難い事に、我が家にはその、創価学会第二代会長戸田城聖先生も言われた、「分身散体」の、正宗信徒の各家に御安置された、御仏壇の正真の日蓮正宗の御本尊様が、我が家にも居られる訳だ。
 これに、祈る。ただ、ひたすらに御本尊様の面前で祈るのみ。若しくは、家に魔が多くて、困っているなら、すぐそばに、我が家の場合は、存立する、菩提寺の末寺の我がお寺、かなり近所の、無量山寿海寺にまで行き、そこで祈って来る。これが出来得ると言う事は、何と素晴らしい事か‼
 だから、もっと、自身の境涯を高めて、素晴らしい人生として、夢を残らずに全て大願成就(だいがんじょうじゅ)させて、成し遂げていきたい。

 以上。よしなに。wainai

「人生、皆、師なり」は大嘘

2023年05月16日 08時57分01秒 | 日蓮正宗無量山寿海寺・菩提寺・末寺・お寺・僧俗一同・僧俗一致
 私は最近、自身の格言としてきた、「人生、皆、師なり」を、疑い出した。
 何故かならば、良く、私の菩提寺、お寺において、受け答えに、疑問符を投げかける人に、出逢ったからだ。
 例えば、有る、大変にお世話になっている人に、一カ月ぶりに会うと、最大限の挨拶、お辞儀をする。
 そうしてからに、今度は、それ程、お世話にならない人や、その、大変お世話になっている人に取り、気に食わない人、一番警戒している、感じの人、誰彼にも、私は平等に、挨拶、お辞儀をする。
 それには、私に対して、無視を決め込むような人にもそうしてみたり、そのお世話になっている方々が警戒している人と共に、私にも酷い扱いをもってかつて行った人、それら、私にとり、敵の、仇のような人にも、私は平等に、挨拶、お辞儀を行なっているのを、私がお世話になっている大恩人の方が見て、ありゃー、この、○○君(私の事)は、完全に、おかしいな、と常々思っているのを、私は承った事も有る。
 だから、私には、プライド、誇りも何もなく、ポリシーも持ち合わせていない、誰でも、構わずに、尾っぽを振っていると。
 それらお世話になっている方々に言わせると、挨拶はまだ良い。その後の、私の振る舞い、お世辞をその、私の、敵、というか、ひどい扱いをした人に、ゴマをすってみたり、それら、お世話になった人も被害を受けている方々にとっては、筆舌に尽くしがたい程、私の、調子の良さ、調子の軽さが、非常に気にはなっていたらしい。
 それを、私は読み解くと、「人生、皆、師なり」の、あのことわざの実践にあったと見抜いた。
 あれは、大ウソだと私は見抜いた。
 それは、宗祖日蓮大聖人様が、御書の中で、師匠を選びなさい、選ぶならば、法華経の師匠を選びなさい、と語っている事を持って、そう判断せざるを得ない。
 愚人に褒められたるは、第一の恥なり、とも御書で仰られる。
 何でもかんでも、誰でも彼でも、師匠だと思っていたら、とんだ間違いを起こす。
 それこそ、この世には、キリストやら、イスラムのマホメットや、それらの教えの無数の指導者たちや、既成仏教教団、爾前権教の、邪師たち、新興宗教の教祖、その指導者たち、神社神道の神官、拝み屋、占い師、等々、に至るまで、この世には実に種々雑多様々な「師匠」と呼ばれそうな、人が沢山多く山ほど、居る。
 それら「邪教」の「邪師」を、皆、束になって、「師」と仰いだら、どうなるか、と考えたら、私の胸中に、薄ら寒いものを感じた。これは、怖ろしい事になる、と。人生間違える、と。それを、大聖人様は、死ぬ程警戒しろ、と御訴えになっているのだ。
 だから、あの、どこから覚えて来たのか、そのことわざ、「人生、皆、師匠なり」は、とんでもない、言説なのだ。それを実践して、今の今まで来てしまった、自分自身は、とんだ大間違いをして来たのだ。
 日蓮正宗の、師匠は、宗祖日蓮大聖人様、御法主上人猊下様、末寺の菩提寺の御住職様、に外ならず、それに、講頭さん等や、折伏主の方、諸先輩方、これら、自宗、当宗、本宗の、本当の本物の師匠に随順して従ってゆくのが、一番に正しい。それこそが、本来あるべき、日蓮正宗信徒の姿なのである。誰にでも、尻軽に、尾っぽを振ってもいい訳では、ないのである。

 そんな事に、やっと今頃気付いた、私なのであった。

 以上。よしなに。wainai

※編集後記
 創価学会の、池田大作名誉会長を、「師弟不二」「永遠の師匠・指導者」などと、たてまつり、祭り上げるのは、人を神か、仏の存在にした、「池田神格化」、「池田本仏論」であり、「池田教」を立ち上げるのか、創価学会は!との、疑念を投げ掛けられても、しょうがない程の、愚かさである。愚に等しい。
 どうして、あんな、と言っては、学会員達には聞こえが悪いが、池田氏の本性が明らかにされずに、それこそ、神格化、聖人化された、人間以上の存在に成り上がった、不逞で、不遜な、失礼極まる存在の筈の池田が、どうしてか、情報が上手く操作・作用して、学会員本人達だけが、知り得ない、謎の、「洗脳」がまかり通り、学会員本人達が知らぬ内に、通り一遍の、今は情報操作が行われた結果だろう。

 一般日本国民、それに、最大のライバル、法論の行われるのを怖れた、その、元々の創価自身の存立の証しだった、「日蓮正宗」の教義を大幅に改変改悪した。正に法盗人。巨魁、極悪人間・池田大作。その他、日蓮正宗信徒僧俗、日本の有識者、知識人達も、創価自体の、幼稚性、その教えの、張りぼて宗教、全てが日蓮正宗からの借り物の、自身では何一つ生み出し成し得なかった、と、批難批判喝破されて、どこに於いても、ウソの正体を皆が見抜き、証明し抜かれた。

 実証で示し、現証でも、創価の現罰が、溢れ出している現今。大恩ある、日蓮正宗に矢を向けた、有り得ない程の、この世で最大の、罰当たり者、謗法の中の大謗法、劣等宗教の現在の姿が、創価学会となって、露わとなった。

 教義の、教えの根本根幹が、正宗におんぶにだっこの、その情けない姿、有様で、日本国民と、世界中の人々を勧誘したつもりになっている。その、情けなさ。事実上、実態は、空を掴む、存在感の無さ。全くの空虚、虚しいだけの存在、それが偽らざる、創価の全て。実態実数は、公称世帯数八百万などと豪語してても、活動家全部足しても、百万足らずなのではないのか?

 第六十六世御法主日達上人も、日蓮正宗でないものが、世界に広がり流布しても、何の得にもならない(趣意)、との、御言葉が現にあるのに。

 とにかく、池田大作など、敵には非ず。あやつ、きゃつは、第六天の魔王にもなぞらえる向きもあったが、それ程の大人物にも見えない。妄想狂であり、針小棒大に過ぎぬ、誠に実に、小者。大きく人一倍見せて、それらは全て誇大妄想であり続け、側近達共を従え、服せしめて、実際以上に、創価御得意の、欺瞞に満ちた、フェイクを駆使して、人々一般大衆を欺き、ダマす。ただの張りぼて人間そのもの。その知略に関しては、東大、京大、早稲田、慶応、他を多量に使い、一種のビューロクラシー、官僚制を敷き、トップダウン方式で、幹部も含めて、下っ端学会員を従わせる。一般会員を意のままに、服従させる事に、池田は成功しただけ。

 システム上、創価学会としての支配が、成功しただけであり、何も、池田の手柄でも何でもない。何度も言うが、官僚制、ビューロクラシーが、その、成功の因。池田大作の実態は、正に、霧の中である。実態が解る人には、解るのではあるが。

 実際池田は、脳タリンで、ろくに教学も身については居らずに、駄弁が過ぎて、そのハレンチで、醜聞ばかりを撒き散らす。ろくでもない人物。教学ならば、まだ、顕正会の、浅井氏の方が、少しはましな位。それでも、浅井も、相当なワル、その暴力性、顕正会を牛耳り、その悪質、危険性から、公安からも、マークされる程、組織が悪辣である。

 池田など、大物を気取った、裸の王様にしか、過ぎない。最初から、戸田先生の、御眼鏡にもかなわない。それだけの、下っ端の、人物。間抜けの存在。それが、池田の全て。会長などに、成らぬ器、なるべきではなかった。初めから。

 とにかく、学歴なんて、宗教の正邪とは、何の関係も無い。「幸福の科学」などという、下劣な邪宗教の教祖大川隆法は、知っての通り、東大卒。それでも、神がかりとなり、ほとんど狂人の域である。

 国内のテロ集団、サリンをまいた、オウム真理教教団を見ても、東大、京大、早稲田、慶応、などの、学歴優秀者が、その集団の中枢を担っていた。

 それだから、東大など出たって、近くの、湯島天神などの、神社系列の神道の宗教に染まり、社に頭を下げて、真実のこの日蓮正宗の大仏法大仏教など露も知らずに、染まり切っている輩など、おそらく、この日本国に於いては、数知れず。

 宗教と、学歴は、全く関係がない。自分の選択肢に、何が、優先しているか、ただの、菅原道真公が、学問の神様だから、御利益を買って、お参りに来たんだ、とか抜かす、立派に勉強をし抜いた、東大を目指した、受験生が、本当にいるのが、今の私には、七不思議にでも遭ったようで、誠に不可思議である。

 東大京大を受験し、東大生京大生と成ろうとしている者が、果たして、そんな、簡単で、真実の、立派な道理、日蓮正宗の信仰を敢えて選ばない選択肢の多過ぎな、この世の宗教に関する無知蒙昧、幼稚さの情けなさ。東大生だったら、本当は、真実を見抜ける筈、というのも道理・理屈が通らぬ間違い。そもそも、宗教教育も受けては来なかったという、頭だけは良いという、出発点からが間違えていたのかも知れぬ。

 中には間違えた邪教・キリスト教、カソリック、プロテスタント、東方正教会、等々、イスラム教まではまさか日本にはいないだろうが、東京では、分からないねえ。

 東大生の信仰、宗教の実態は分からない。京大生は、どうなんだか、それすらも判らん。結構、創価、元統一教会、共産党の民青同盟等々がその頃の東大の学内では何と言っても多かった、と、或る本の中で、東大教授だった、「バカの壁」の「養老孟司先生」が仰られていた。
 
 とにかく、脱線してしまった編集後記だが、この辺で、文の最後、幕を閉じたい。以上。

※編集後記、その2,続き~話を逆に戻すと。
 ここで、冒頭に一旦話を戻す。
 しかし、私は、その会う人々を、師匠、先生と慕い思わなければ良いだけの話であり、ちっとも、挨拶くらいならば、許される範疇なのではないのか、と思う。
 あいさつは、人と人とのコミュニケーション、潤滑油であり、ちっとも、けなす、けなされるような類のものではない。
 であるからして、私は、今後共、私と出逢う多くの方々との親睦、友情を重ねる印としての、あいさつは、欠かさずに、元気よく、行ない、実行してゆこうと思う。

以上。再び。よしなに。wainai

何でも、リビドー(性的本能)が働いているのか?

2023年05月15日 11時44分11秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 精神医学では、精神医学者・フロイトの説く、生の本能としての性的エネルギーとして、何に於いても、「リビドー」が働く、と説く。

 それに対して、そんな大げさな話では無かったのだが、我が家に来ていた、S協のベテランヘルパーさん、W辺さんは、こんな反応を示して、語っている言葉があった。
 
 それは、私との、W辺さんが調理中にも、会話が為されていたのだが、私はその時、うろ覚えだが、確か、井上陽水の音楽を、PCで掛けている最中だった。

 その時に、私は、こういう音楽家は、純粋に、損得抜きで、女の人にモテたいなどの気持ちなど一切無しで、音楽家、作詞作曲家となったのか、それとも、多分に、女の人にモテたくて、音楽を志したのか?どっちなんだろう、と。

 それが、女の人にモテたい、との、不純な動機から、そう、有名人になったとしたら、それは果たして、許せる話なのか、との、究極の、人生問答を、W辺さんに投げ掛け、訴えた。

 それら、音楽家、フォークソング、ニューミュージック界の大御所、井上陽水にしろ、吉田拓郎にしろ、南こうせつ、松山千春、桑田佳祐、玉置浩二、財津和夫、等々の人達の名前を列挙して、それら作詞作曲者たちが、皆、当初の出発点が、不純な動機から出発していたら、イヤだ、心外だ、ガッカリだ、と私は、W辺さんに訴えかけた。

 W辺さんは、あー見えても、音楽には、非常に造詣が深く、私などは、ただ、売っている音楽のCDや、電子音楽のダウンロードするのみの、浅い、音楽の聴き方、音楽人生だったが、W辺さんは、実際に、その現場、詰まりは、コンサート会場まで足を運び、直に音楽を見聞きする程の、見聞も広く、大の音楽ファンでもあるので、私などは尊敬の念を持って、彼女の言う事する事、全てにおいて、音楽の達者な人生を送る彼女、W辺さんの事は、素晴らしい女性だと、常々思っていた程、彼女のヘルパーのサービス時間は、私達二人の間で、音楽の話が、全てを占めるのであり、中心をなしていた。それ程、私達は、二人とも、音楽好きで、私は彼女を敬い、音楽を中心とした、関係性が強固に結びついていた。
 
 そのW辺さんが言った。それは、結局、男の人は皆、最初っから、女の人にモテたいと思って、音楽を始めた人は、相当の数に上る筈。それが、どうしていけないの、と、こういってのけた。要するに、W辺さんは、最初から、男の作詞作曲家、シンガーソングライターが、女性にもてるのを目当てにして、音楽を始めた、それが出発点だからって、何が悪いの?という立場だった。
 
 私は、それを聞いて、あー、なんか、ガッカリだ、とその場でため息交じりで、もう、本当にガッカリした雰囲気で、肩を落とした。それならば、その伝で言えば、西洋音楽の、音楽家、モーツアルトや、ベートーヴェン、などの、クラシックにもそれが応用され、皆、女の人にモテたくて、音楽家になった人もいたの?とその疑問を、W辺さんに聞いたら「当然!」との返事。

 もう、開いた口が塞がらない。というか、それじゃあ、こんなに純粋?な気持ちで、それら音楽の楽曲類に幼少から慣れ親しんで来た私などは、本当に、その日一日で、全ての音楽、音楽家に対して、ガッカリの、心底から見損なう、というか、それら音楽家の根性が、嫌気が差す程の、イヤだ、という衝撃を受けた。

 みーんな、女目当てで、モテたいが一心で、それら音楽を、紡いでいた、音楽を作ってきたのだという真実。事実。訳。理由。それらを聞いていたら、もう、何か、自分が自分でも許せない、というか、本当にガッカリ来た。もう、知らない、と。それら、そいつらに、騙された、と。

 けれども、W辺さんが言った。それが事実なんだけれども、結果としては、今現代現在の、それら優秀な、有名な、音楽・楽曲として、名を残し、人々に愛され、記憶にも残る程の、楽曲、音楽を残してくれている事は、その当人にも、我々一般人にも聞く事が出来て残してくれて、誇れる事だし、素晴らしく、悪い事ではないんだよ。動機はどうあれ、結果が良ければ、すべて良し、ということわざもあるでしょ、という。

 私も、音楽は大好きなんだが、そんな一面、今、有名な音楽家たちほとんど全員が、女にモテたくて、音楽を作る。音楽家を目指していた。それには、全面的には承服出来兼ねたが、しかし、W辺さんの言う事にも、一理あるし、後は、何も言えなかった。

 ただ、もっと、それら、フロイトのリビドー説を裏付けるような、そういう性的力学で、この世の中が動いている事に、猛ショックを軽く受けた。純粋な、ウソの付けない、バカ正直者の、私であった。

 考えて、言われてみれば、あの、英国、イギリスのロックバンド、「ザ・ビートルズ」だって、バンド発足当初、デビュー前には、優等生バンドと言われる前は、スキャンダラスな噂、相当なワル、であり、それは、不良性を全面に掲げた、二巨頭、ライバルバンド・ローリングストーンズよりも、相当悪質な、悪さをしていた。

 ヤンチャな時期も、その、ビートルズの歴史には、当然、刻まれている。それらを思えば、そんな、日本の音楽家の貞操などは、優劣に微塵も、損得にも、関係がない程、考え及ばず、しょうがないし、ビートルズのあのタチの悪さに比べれば、所詮、月とスッポン、大人と子供との違い、そんな格差すら感ずる。
 
 とにかく、人の事、ゴシップばかりなどに、関わってばかりもいられない。それよりも、自分の足元を、頭の上に、ハエがたかっていないか、それら、自分自身をもっと見詰め返して、他人事など、この際、どうでもよい。そんな事は、今更、関係が無いのだ。こちらとしても、どうもこうもしようもない。

 無論、今はもう、その当時、今から数年前に辞めてゆかれたヘルパーさんの言った事でもあるし、その後は、今はそのヘルパー事業の利用者でも私はとっくに無くなった。

 とにかく、W辺さんの言う通り、この世に、良い音楽を残してくれた事にのみ、喜び、感謝すべきであるし、音楽家たちの、その動機は、純であれ、不純であれ、どうこう文句をいい、垂れる、という、こちら側にはそんな権限は全く無いのだ。

 とにかく、楽曲は、音楽は、我らの目の前に厳然としてある。それを、まずは、純粋に、聞いて楽しみ、喜び合おうではないか。

 音楽を味わうのに、理屈などは一切要らない。自分自身の感性を試すのみ。その音楽を一心にひたすら味わうのみ。その時こそ、こちら側聴き手・受け手は純な、清純な気持ちで味わえばそれでよろしい。それが本日今日の結論。

 一般大衆の、現在を生き切る、諸先輩後輩・御同輩、皆様方よ!

 長文失礼致しました。ここまでお読みいただき、誠に有難う御座います。

 以上。よしなに。wainai

私のハーモニカ演奏、素人初級者編

2023年05月14日 11時42分52秒 | 音楽楽器演奏・歌・楽典楽譜・ギター・ハーモニカ・カリンバ・ピアノキーボード
私のハーモニカ演奏、素人初級者編
とても聞けたもんじゃないですが、下手の横好きで、ハーモニカ道をいつかは極めてみたいと思い、望んでおります。何とかハーモニカが上達したい。

以上。よしなに。wainai

本日は日蓮正宗の『御報恩御講』・『母の日』

2023年05月14日 10時05分21秒 | 『福祉』『介護』病院・障碍者・高齢者福祉。母の優しさ。借金ローン返済地獄解決篇
 今日は、日蓮正宗信徒にとっては、一か月で最大一の行事、第二日曜日昼13時恒例の「御報恩御講」(ごほうおんおこう、通常名称、「御講」)の為、大々的にお祝いして、「旭日旗」を掲げました。気分が一新されて、とてもいい気持ちです。
 それに、今日は、「母の日」でもあるので、お花屋さんで「カーネーション」を買い求め、母用にこの間、化粧水と、コットンも買ったので、併せて贈りに、高齢者施設に行って来ようと、思って居ります。母が喜ぶといいんですが。きっと喜ぶはず。喜ぶと思う。喜ぶんじゃないかな。ま、ちょと覚悟はしておけ。(さだまさし「関白宣言」のもじり。)

以上。よしなに。wainai

創価学会員への『折伏教本』日蓮正宗

2023年05月13日 13時57分14秒 | 朗読版・折伏破権門理邪教破折日蓮正宗御本読上げ勉強趣味(楽器演奏)動画特集
創価学会員への『折伏教本』日蓮正宗
創価学会員への折伏教本、日蓮正宗宗務院刊。KK大日蓮出版発行。この御本は、今の創価の問題に直面する人々への、絶大なる、決定的な御回答であります。ここに、真実が、あります。真実は、なによりも強く、創価の嘘ばかりの言説よりも、日蓮正宗はじめこの御本は、最大限に強い、言論の論陣を張って、日蓮正宗の正法正義を述べる、創価大批判となっています。これに、今の創価の人種たちは、誰も真っ当に答えられずに、日蓮正宗法華講の者とは話すな、法論したら負けが決定的・確定的なので、自粛して、会わないように警戒をその地区その地区で学会本部が発して、現在は、これ見よがしに、警察等を呼んで、逃げ回っているのが、創価の現今の実態、実情、真相、姿で御座います。詰まり何を意味しているかと言えば、創価は、最初から、日蓮正宗と法論すれば負けるのが判っているから、議論をするのは避けたい。逃げるのは、その為なのであります。初めから、『負け犬創価』『美辞麗句の創価・池田田吾作』の愚劣集団が、今現在の、創価それ自身、なのであります。 

以上。よしなに。wainai