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<「漢字の学習の大禁忌は作輟なり」・・・「作輟(サクテツ)」:やったりやらなかったりすること・・・>
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<漢検1級 27-③に向けて その118>
●「文章題訓練」その㊼です。復習・おさらい用にどうぞ👍
●難度は並・・・チャレンジャーは80%(24点)以上が目標・・・。リピーターは限りなく90%以上とりたい(^^)
●文章題㊼:次の文章中の傍線(1~10)のカタカナを漢字に直し、傍線(ア~コ)の漢字の読みをひらがなで記せ。(30) 書き2×10 読み1×10
(A)
「・・・楓だけでもそれぐらいであるが、東山の落葉樹から見れば楓はほんの一部分である。新緑のころ、東山の常緑樹の間に(ア)点綴されていかにも(1)モウシュンらしい感じを醸し出す落葉樹は、葉の大きいもの、中ぐらいのもの、小さいものといろいろあったが、それらは皆同じように、新芽の色から若葉の色までの変遷と展開を五月の上句までに終えるのである。そうしてそのあとに常緑樹の新芽が目立ち始める。椎とか(イ)樫とかの新芽である。前に言ったように椎の新芽の黄金色が、むくむくと盛り上がったような形で東山の山腹のあちこちに目立ってくるのは、ちょうどこのころである。やがてその新芽がだんだん延びて、常磐樹らしく落ちついた、光沢のある新緑の葉を展開し終えるころには、落葉樹の若葉は深い緑色に落ちついて、もう色の動きを見せなくなる。そうなるともうすぐに五月雨の季節である。栗の花や椎の花が黄金色に輝いて人目をひくのはそのころである。
・・・
少しずつ黄色が目立ちはじめるのは、十月になってからであったと思う。新緑の時に樹の種類によって遅速があり、またその新芽の色を著しく異にしていたように、緑があせて黄色が勝ち始める時期も、またその黄色の色調も、樹によってそれぞれ違う。十月の中ごろにはそういう相違がはっきりと感じられるようになる。(ウ)楢であったか、形のいい大きい葉で、実に純粋な美しい黄色を見せるのもあった。それから(2)ハゼのような真紅な色になる葉との間に、実にさまざまな段階、さまざまな種類がある。それが大きい樹にも見られれば、下草の小さい木にも見られる。
・・・
こういう雪景色と交錯して、二月の初め、立春の日の少し前あたりから、池の鯉が動きはじめ、小鳥がしきりに庭先へ来る。そういう季節が、紅葉と新緑とから最も(エ)距たっていて、そうして最も落ちついた、地味な美しさのある時である。昔の人はちょうどそのころに年の始めを祝ったのであった。・・・」「京の四季」(和辻哲郎)
(B)
「 数多き観音像、観音崇拝――写実――百済観音
推古天平室に佇立したわたくしは、今さら、観音像の多いのに驚いた。
聖林寺観音の左右には大安寺の不空羂索観音や楊柳観音が立っている。それと背中合わせにわが百済観音が、(3)ヒョウビョウたる雰囲気を漂わしてたたずむ。これは虚空蔵と呼ぶのが正しいのかも知れぬが、伝に従ってわれわれは観音として感ずる。その右に立っている法輪寺虚空蔵は、百済観音と同じく左手に(オ)澡瓶を把り、右の肱を曲げ、(カ)掌を上に向けて開いている。これも観音の範疇に入りそうである。さらに百済観音の左には、薬師寺(?)の、破損はひどいが稀有に美しい木彫の観音があって、ヴィナスの(4)エンビにも似た印象をわれわれに与える。その後方には法隆寺の小さい観音が立っている。
目を転じて室の西南隅に向かうと、そこには大安寺の、(5)シャクジョウを持った女らしい観音や一輪の蓮花を携えた男らしい観音などが、ズラリと並んでいる。さらに目を転じて室の北壁に向かうと、そこにも唐招提寺などの木彫の観音が、あたかも整列せしめられたごとくに、並び立っている。室の中央には法隆寺の小さい金銅観音が、奇妙な微笑を口元に浮かべつつ、台上のところどころにたたずんでいる。岡寺の観音は(6)ハンカの膝に肱をついて、夢みるごとき、和やかな瞑想にふける。それが(7)ミロクであるとしても、われわれの受ける印象は依然として観音である。
・・・
天武帝は壬申の乱を通じて即位せられたために、古来史家の間にさまざまの論議をひき起こしてはいるが、われわれにとっては他の意味で興味の深い代表的人物である。第一に、帝は万葉の歌人として名高い。額田王に送って(8)センザイの後に物議の種を残した有名な恋歌「紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾れ恋めやも、」の一首は、帝の情熱的な性質を語って(9)ヨウンがない。その情熱はまた仏教を信ずる上にも現われた。
・・・
カラ風呂――光明后施浴の伝説――蒸し風呂の伝統
法華寺の境内に光明皇后施浴の伝説を負うた浴室がある。いわゆるカラ風呂である。・・・これがつまり浴槽であって、そのなかへ、床板の下から湧出する蒸気が、充満する仕掛けになっている。純然たる蒸し風呂である。
この構造が天平時代のものをそのまま伝えているのかどうかはわからない。東側のたき口は西洋(キ)竈風に煉瓦を積んで造ってあったし、北側の隅には現在の尼僧が常用するコンクリート造りの長州風呂が設けてあった。この種の改良が千年にわたって少しずつ試みられたとすれば、これによって原形を想像するのは危険な話である。しかしこの「蒸し風呂としての構造」だけは昔の面影を伝えていはしまいか。少なくともこれに似寄った蒸し風呂が光明皇后の時代に存在したということは確かではなかろうか。
この浴室に光明皇后施浴の図が額にして掲げてある。現在の銭湯と同じ構造の浴室に偏体(10)カイライの病人がうずくまり、十二ひとえに身を装うた皇后がその側に佇立している図である。光明皇后の十二ひとえも時代錯誤でおかしいが、この蒸し風呂の設備と相面して銭湯風の浴室が画いてあるのは、愛嬌を通り越してむしろ皮肉に感ぜられた。しかし実のところわれわれは光明皇后施浴の伝説を、漠然とこの図のように想像していたのである。施浴が蒸し風呂であるとすると、われわれも考えなおさなくてはならない。
・・・しかし伝説は単にそういう「施浴」を語るだけにとどまってはいないのである。『元亨釈書』などの伝える所によると、――東大寺が完成してようやく慢心の生じかけていた光明后は、ある夜(ク)閤裏空中に「施浴」をすすむる声を聞いて、恠喜(かいき)して温室を建てられた。しかしそればかりでなく同時に「我親ら千人の垢を去らん」という誓いを立てられた。もちろん周囲からはそれを諫止したが、后の志をはばむことはできなかった。かくて九百九十九人の垢を流して、ついに最後の一人となった。それが体のくずれかかったカイライで、臭気充室というありさまであった。さすがの后も躊躇せられたが、千人目ということにひかされてついに辛抱して玉手をのべて背をこすりにかかられた。すると病人が言うに、わたくしは悪病を患って永い間この(ケ)瘡に苦しんでおります。ある良い医者の話では、誰か人に膿を吸わせさえすればきっと癒るのだそうでございます。が、世間にはそんな慈悲深い人もございませんので、だんだんひどくなってこのようになりました。お后様は慈悲の心で人間を平等にお救いなされます。このわたくしもお救い下されませぬか。――后は天平の美的精神を代表する。その官能は馥郁たる熱国の香料と滑らかな玉の肌ざわりと釣り合いよき物の形とに慣れている。いかに慈悲のためとはいっても癩病人の肌に唇をつけることは堪えられない。しかしそれができなければ、今までの行はごまかしに過ぎなくなる。きたないから救ってやれないというほどなら、最初からこんな企てはしないがいい。信仰を捨てるか、美的趣味をふみにじるか。この二者択一に押しつけられた后は、不レ得レ已、癩病の体の頂の瘡に、天平随一の朱唇を押しつけた。そうして膿を吸って、それを美しい歯の間から吐き出した。かくて瘡のあるところは、肩から胸、胸から腰、ついに(コ)踵にまでも及んだ。偏体の賤人の土足が女のなかの女である人の唇をうけた。さあ、これでみな吸ってあげた。このことは誰にもおいいでないよ。――病人の体は、突然、端厳な形に変わって、明るく輝き出した。・・・」「古寺巡礼」(和辻哲郎)
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(1)孟春 (2)櫨 (3)縹渺 (4)艶美 (5)錫杖 (6)半跏 (7)弥勒 (8)千載 (9)余蘊 (10)疥癩
(ア)てんてい(てんてつ) (イ)かし (ウ)なら (エ)へだ (オ)そうへい(そうびょう) (カ)たなごころ (キ)かまど (ク)こうり (ケ)かさ(くさ) (コ)かかと
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ただ今、文章題復習中です。
この「千載」は内容からして千載和歌集のことでよろしいのでしょうか?
今回の復習は、時間を気にせず、意味も理解しながらじっくり読んでおります。
単に、長い年月の後に・・・という意味ではないですかね?額田王をめぐって天智と天武が本当に三角関係にあったのかどうかっていう物議のことと思いましたけど・・・。