少しマニアックな話になります。労働組合の青年部というのは、労働組合本体を補助する機関です。若い労働組合員の要求や思いを労働組合にすいあげる役割と労働組合そもそもを若い労働組合員に伝える役割がありまする日本の場合、戦前、労働組合がすべて解散させられました。そのことによって、戦後生まれ団塊の世代の要求を本体である労働組合に伝えていくために青年部は、つくられました。その伝統を受け継いで、日本の大きな労働組合には青年部があります。
青年部というからには、一定の年齢制限をする必要もあります。しかし、もともと労働組合の運営になれていない青年たちで運営するのでなかなか困難があります。そんな中でも、青年たちはがんばってきました。
1995年夏にサマ-カ-二バルという青年のお祭り、学習会、大運動会、夜祭、バンドコンテスト、ミニコンサ-トがある企画が行われました。全国から4000名の青年を集めよう、そのことによって、各産業を超えた各県の横のつながりをつくろうという目的でした。たけちゃんの県でも、その取り組みが進み、何回も交流会をして、宣伝をしました。
公務員、教員、コ-プで働く青年、金融機関で働く青年、いろんなところの人が集まりました。そしたら、自分の働いているところでは、あたり前のことがそうでない現実とぶつかることになりました。交流会という飲み会を一つ決めるにも開始時間をどうするかかが問題になります。早く終わるところ、残業があるところ、いろいろでした。そんな中でたけちゃんの県では、いろんな組合が集まった県の青年部ができました。平和のこと、最低賃金のこといろんなことに取り組みました。
たけちゃんの県が元気になったのと逆に全国の組合の本部の青年部は、それまでがんばっていた中心の青年が年齢が青年部の歳でなくなったことや組合本部の任務変えでいなくなりました。サマ-カ-ニバル直後の大会では、青年部長の名前のない投票用紙が配られました。たけちゃんにとっては、おおきなショックでした。その後、2年間低迷の時期がありました。全国の組合本部との話し合いもありました。みんなが真剣にどうしたらいいか考えました。
私は、ただサマ-カ-ニバルに集まった元気な青年たちの笑顔を大切にしたいと思っていました。そんな時に私に東京に来て役員になってほしいという依頼がきました。組合本来の仕事もしたことない一青年が全国の本部の専従となったんです。自分の愛用のワ-プロを抱えて事務所に行ったことを覚えています。それで、おにぎり君と出会って、悪戦苦闘の日々が始まりました。
結果的に私がやらなくても誰かが引き継いだかもしれません。その時は、青年部が崩壊してしまうかかもしれないと必死でした。
原発いらない集会でたけちゃんが持ち歩いていた青年部の旗がはためいていました。一人で勝手に号泣していました。私が私である原点です。
青年部というからには、一定の年齢制限をする必要もあります。しかし、もともと労働組合の運営になれていない青年たちで運営するのでなかなか困難があります。そんな中でも、青年たちはがんばってきました。
1995年夏にサマ-カ-二バルという青年のお祭り、学習会、大運動会、夜祭、バンドコンテスト、ミニコンサ-トがある企画が行われました。全国から4000名の青年を集めよう、そのことによって、各産業を超えた各県の横のつながりをつくろうという目的でした。たけちゃんの県でも、その取り組みが進み、何回も交流会をして、宣伝をしました。
公務員、教員、コ-プで働く青年、金融機関で働く青年、いろんなところの人が集まりました。そしたら、自分の働いているところでは、あたり前のことがそうでない現実とぶつかることになりました。交流会という飲み会を一つ決めるにも開始時間をどうするかかが問題になります。早く終わるところ、残業があるところ、いろいろでした。そんな中でたけちゃんの県では、いろんな組合が集まった県の青年部ができました。平和のこと、最低賃金のこといろんなことに取り組みました。
たけちゃんの県が元気になったのと逆に全国の組合の本部の青年部は、それまでがんばっていた中心の青年が年齢が青年部の歳でなくなったことや組合本部の任務変えでいなくなりました。サマ-カ-ニバル直後の大会では、青年部長の名前のない投票用紙が配られました。たけちゃんにとっては、おおきなショックでした。その後、2年間低迷の時期がありました。全国の組合本部との話し合いもありました。みんなが真剣にどうしたらいいか考えました。
私は、ただサマ-カ-ニバルに集まった元気な青年たちの笑顔を大切にしたいと思っていました。そんな時に私に東京に来て役員になってほしいという依頼がきました。組合本来の仕事もしたことない一青年が全国の本部の専従となったんです。自分の愛用のワ-プロを抱えて事務所に行ったことを覚えています。それで、おにぎり君と出会って、悪戦苦闘の日々が始まりました。
結果的に私がやらなくても誰かが引き継いだかもしれません。その時は、青年部が崩壊してしまうかかもしれないと必死でした。
原発いらない集会でたけちゃんが持ち歩いていた青年部の旗がはためいていました。一人で勝手に号泣していました。私が私である原点です。