おだやかな日々が続きますように。

脳腫瘍で結婚して3年間たたかった新婚カップルの日々

角川映画・・・大学時代の親友きたる。

2011年07月13日 | Weblog
 私の中学生のころ、角川映画がブ-ムでした。人間の証明「僕のむぎわら帽子」野生の証明「お父さんを殺しに来る」戦国自衛隊、ねらわれた学園、セ-ラ-服と機関銃「カイカン」復活の日等です。大作が多かったです。そして、二つの作品を除いて、出演しているのは、・・・薬師丸ひろ子です。今、デジタル・マスタ-版が通販で売られています。思わず・・・買ってしまいました。「野生の証明」「ねらわれた学園」「セ-ラ-服と機関銃」を前にしてニンマリしています。
 メ-ルに「キャベジへ」というメ-ルがきました。キャベジンというのは、大学時代のニックネ-ムです。大学は、4年間、ニックネ-ムが本名でした。学生会館は、学生自治会が管理していて、呼び出し電話もニックネ-ムでした。そう簡単には、書けない超濃いドラマの4年間でした。4年間の間、結果的にですが、3年間学生ストライキをしました。80年代の後半に・・・。大学審議会法案反対!!、学費値上げ反対!!消費税導入反対!!を真剣に議論し、たたかっていました。倒れていく仲間・・・去っていく仲間・・・恋・・・。あの4年間がなければ、今の私はありません。









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そういえば たけちゃんの学生時代

2011年07月11日 | たけちゃんのこと
 私は、福祉を勉強したくて、某大学に行きました。そこで、福祉の勉強もしましたが、サ-クル活動もしました。その時、学生自治会のこともしました。ヘルメットかぶった人達とは違う学生運動でした。そこでもたくさんのすばらしい仲間ができました。ちょうど、80年代後半、中曽根さんが総理大臣で臨調行革路線が進んでいる中でした。天安門事件もおきました。今より、展望が見えない中でした。
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いろいろ書いてしまいました。

2011年07月09日 | Weblog
 実は、原発いらない集会のシュプレヒコ-ルの代わりに踊りを入れたコ-ルをしました。その音頭をとったのが私と同じように青年部の役員として上京して、期間が過ぎて、地元に帰らざるを得なかった青年でした。地元に帰ってもいろいろあって、今、彼は、東京で労働組合の書記として働いています。
 正直、感動しました。うれしかったです。その彼に触発されていろいろ書いてしまいました。元気ですし、いろいろやることは山ほどあるので仕事もしています。がんばります。
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どんな仕事もそうですが

2011年07月08日 | Weblog
 仕事がら、初対面や一定の人の前で話すことが多いです。いろんな人と交渉したり、時には国会議員と懇談することもあります。そういうことにも一定慣れてきました。しかし、でも、緊張感とプレッシャ-がすごいです。
 また、好きでやっているけど、今年になってから、休んだという休みは、一週間もありません。それでも、専従は、ヒマだ、楽していると一緒に活動している仲間からも言われます。
 いろんな成果をあげてきたことは、あります。でも、全部、絵空事にしか思えません。
 そんな中で出会ったののがともさんでした。もちろん、ともさんに仕事の話はできません。でも、なんだか、ほんわかできたのです。
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 いくつかの葛藤

2011年07月08日 | Weblog
 私に東京に来ないかと誘いが来た時、私の県の組合の事務局長さんは、定年近く引退すると言っていて、後任を探していました。私の組合の専従の役員さんは、奥さんが難病になったとこがわかったばっかりでした。私は、積極的に東京に行きたいとはいえませんでした。出来るならそうしたいと。県の役員さんも私の組合の専従さんも私が東京に行くことを許可してくれました。
 だから、ずっと、東京にいないかという誘いは、ありましたが、私は富山に帰るといい続けました。
 そして、2年の約束を3年にして、かえってきました。私は帰れば、歓迎されて、青年のことをいろいろやらせてもらえると思っていました。しかし、東京の組合の本部にいたといえ、たかだか30代の若者に耳を貸す人はいませんでした。
 公務員は、7年間専従できる期間があります。比較的、専従から現場に帰るシステムやかわりの人の確保のシステムもあります。おにぎり君も専従していましたが、現場に帰って今、働いています。
 中央の青年部の役員をした民間出身の人は、なかなかうまくもどることができません。私は、ずっと組合の専従をしています。今後のことは、組合で話し合って決めます。わかりにくい話でした。











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労働組合の青年部

2011年07月04日 | たけちゃんのこと
 少しマニアックな話になります。労働組合の青年部というのは、労働組合本体を補助する機関です。若い労働組合員の要求や思いを労働組合にすいあげる役割と労働組合そもそもを若い労働組合員に伝える役割がありまする日本の場合、戦前、労働組合がすべて解散させられました。そのことによって、戦後生まれ団塊の世代の要求を本体である労働組合に伝えていくために青年部は、つくられました。その伝統を受け継いで、日本の大きな労働組合には青年部があります。
 青年部というからには、一定の年齢制限をする必要もあります。しかし、もともと労働組合の運営になれていない青年たちで運営するのでなかなか困難があります。そんな中でも、青年たちはがんばってきました。
 1995年夏にサマ-カ-二バルという青年のお祭り、学習会、大運動会、夜祭、バンドコンテスト、ミニコンサ-トがある企画が行われました。全国から4000名の青年を集めよう、そのことによって、各産業を超えた各県の横のつながりをつくろうという目的でした。たけちゃんの県でも、その取り組みが進み、何回も交流会をして、宣伝をしました。
 公務員、教員、コ-プで働く青年、金融機関で働く青年、いろんなところの人が集まりました。そしたら、自分の働いているところでは、あたり前のことがそうでない現実とぶつかることになりました。交流会という飲み会を一つ決めるにも開始時間をどうするかかが問題になります。早く終わるところ、残業があるところ、いろいろでした。そんな中でたけちゃんの県では、いろんな組合が集まった県の青年部ができました。平和のこと、最低賃金のこといろんなことに取り組みました。
 たけちゃんの県が元気になったのと逆に全国の組合の本部の青年部は、それまでがんばっていた中心の青年が年齢が青年部の歳でなくなったことや組合本部の任務変えでいなくなりました。サマ-カ-ニバル直後の大会では、青年部長の名前のない投票用紙が配られました。たけちゃんにとっては、おおきなショックでした。その後、2年間低迷の時期がありました。全国の組合本部との話し合いもありました。みんなが真剣にどうしたらいいか考えました。
 私は、ただサマ-カ-ニバルに集まった元気な青年たちの笑顔を大切にしたいと思っていました。そんな時に私に東京に来て役員になってほしいという依頼がきました。組合本来の仕事もしたことない一青年が全国の本部の専従となったんです。自分の愛用のワ-プロを抱えて事務所に行ったことを覚えています。それで、おにぎり君と出会って、悪戦苦闘の日々が始まりました。
 結果的に私がやらなくても誰かが引き継いだかもしれません。その時は、青年部が崩壊してしまうかかもしれないと必死でした。
 原発いらない集会でたけちゃんが持ち歩いていた青年部の旗がはためいていました。一人で勝手に号泣していました。私が私である原点です。










  

















 


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