昨日も裏山を歩きました。山上にある蛇の池のそばで山グループの総会を行ったのは良いのですが、前後の山歩きが寒くて疲れました。
このところ天気が悪くて山歩きを休み、気がついてみれば昨年より登山回数が落ちています。つまり、トレニンーグ不足。その状態で1万5千歩超の山歩きを連チャンしたので、足や腰にこたえたのでしょうか。
このところ目も悪くて、長時間パソコンに向き合うこともつらい感じで、ブログの記事も短くなっているでしょう。
そのようなことを考えていたら、タカ長向き(?)の文章を法頂(ポプチョン)禅師の本の中に見つけました。
すぐに思い直して、冷静に考えると、人間がもし百年、二百年生きるとして、良いことがあるだろうか。そうなったら、人間はどんなに醜く、浅ましくなるだろう。樹木は年輪を重ねるほど堂々として気品が増すけれども、人間は歳をとると、使い古した車輪のようにガタガタになり、老醜を晒すことになる。だから、ほどほどに生きたら生に未練を残すな、ということなのだろう。
目がかすみ、耳が遠くなるのも、それまでの人生で見るほどのものは見、聞くほどのことは聞いたのだから、老いたら、細々としたことは捨てて必要不可欠なものだけを見、聞けという意味かもしれないのだ。
昨年のことですが、小田和正の音楽ツアーの番組をテレビで見たとき、タカ長も同じようなことを考えていました。番組の名前は忘れたのですが、「小田和正74歳の音楽ツアー」というようなもので、感動しながら視聴したものです。
小田和正がもし200年とか300年生きるとしたら感動することは何もないはずですが、限られた人生の中で熱唱しているから人の心を打つのだ、と思ったのです。
法頂禅師が「細々としたことは捨てて必要不可欠なものだけを見、聞け」というのは、いうまでもなく「自分の死を思え」ということでしょう。その死を見つめて生きると今日が輝いてくるということでしょう。
でも、凡人はダメで、タカ長は今日もまたボンボンと生きることになりそうです。でも、老醜を晒すことだけはしたくないのですが、、、、、、、、、、、。
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