今週の祈祷会は、聖書通読がユダの手紙でした。
この手紙の冒頭では、ユダが執筆の事情を明らかにしています。
新約聖書 ユダの手紙より
3
愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
4
というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。
3節に含まれる、「信仰のために戦う」という表現には、何だかおっかないなぁ〜という印象を受けるかもしれません。
ですが、この場合の「戦う」は、「たゆまぬ努力」を指すものです。
この手紙の執筆当時、すでに体系化されつつあった主イエスとその使徒たちの教えを正しく理解し、教え、実践していくことへの「たゆまぬ努力」のことを言っています。
当時の教会にも、本来の聖書の教えに反するような解釈をする人々がいたようです。
その人々が「神の恵みを放縦に変えて」しまうということですから、単なる机上の問題ではありません。
教えの脱線が品性や行動にも現れてくるということです。
そういうわけで、見せかけはともかく、実質的には聖書から外れてしまっている人々の出現に危機感を抱いて、ユダはこの手紙を書いたということです。
聖書を丁寧に読んで思索すること、神学することを疎かにした「信仰」の危うさを思います。
みことばをじっくり味わい、思い巡らしましょう。
この手紙の冒頭では、ユダが執筆の事情を明らかにしています。
新約聖書 ユダの手紙より
3
愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
4
というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。
3節に含まれる、「信仰のために戦う」という表現には、何だかおっかないなぁ〜という印象を受けるかもしれません。
ですが、この場合の「戦う」は、「たゆまぬ努力」を指すものです。
この手紙の執筆当時、すでに体系化されつつあった主イエスとその使徒たちの教えを正しく理解し、教え、実践していくことへの「たゆまぬ努力」のことを言っています。
当時の教会にも、本来の聖書の教えに反するような解釈をする人々がいたようです。
その人々が「神の恵みを放縦に変えて」しまうということですから、単なる机上の問題ではありません。
教えの脱線が品性や行動にも現れてくるということです。
そういうわけで、見せかけはともかく、実質的には聖書から外れてしまっている人々の出現に危機感を抱いて、ユダはこの手紙を書いたということです。
聖書を丁寧に読んで思索すること、神学することを疎かにした「信仰」の危うさを思います。
みことばをじっくり味わい、思い巡らしましょう。