昨日も、午前は主日礼拝。
礼拝後は昼食もご一緒して、午後の話し合いと続きました。
その「話し合い」の時間ですが、牧会を考えるための学びの時間も設けました。
それから、年末に向けての諸行事や来年度のことを検討しました。
また、昨日は話の流れから、出席者の互いの近況などを簡単に分かち合う時も持ちました。
限られた時間ではありますが、有意義でした。
ところで、昨日の話し合いの中で、このブログのことも、たまたま話題になりました。
更新も内容も、まとまりなく「マイペース」ですし、それほど積極的にこのブログを宣伝してるわけでもないのですが、「読んでます」「見つけましたよ」という声をかけてくださいます。
こうしてブログを続けていることで、何かのお役に立てているのなら、それも私にとってうれしいことです。
さて、月末を迎えますので、今月の礼拝説教のあらすじも掲載しておきます。
2017年9月 旧約聖書の講解説教 士師記6章
新約聖書(ヘブル11:2)「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」とし、士師記に登場するギデオンも、そこに名を連ねる(同32)。主は、イスラエルをミデヤン人の手から救うためにギデオンを召した(6:14)。次に主が求めたのは、身近なところでの具体的な応答の一歩。父ヨアシュが持つバアルへの祭壇などを取り除き、主への祭壇を築いて、いけにえをささげることだった(6:25,26)。これらの記述に当時のイスラエルの霊的退廃ぶりが伺われる。その夜のうちにギデオンは 『主が言われたとおりにした』ものの、(6:27b)「彼は、父の家の者や、町の人々を恐れた」とある。ギデオンにしてみれば、自分の置かれた環境の中で、予想される反対や迫害への恐れも抱えつつ、主への応答の一歩を踏み出した。信仰による応答の一歩には恐れも伴う。若く、経験も乏しければなおのことだ。しかし、実生活で主への応答の一歩を踏み出す者を、主は守り、用いてくださる。
神のことばへの信頼をテーマに考えたい。神は、そのことばをもって、人を召し、導き、お用いになる。一方で、私たちの心は何と迷いやすく、疑い深く、煮え切らないものだろうか。これまでのところで、主はギデオンを召し、導き、整えてこられた。彼によって、ミデヤン人の手からイスラエルを救うべく、準備を進めてきた。ここで聖書は、ミデヤン人らの動きを記し(6:33)、その上、主の御霊がギデオンをおおったとし(6:34)、民の諸部族から協力する者たちも集まり始めたと伝えている(6:35)。今や、ギデオンがその使命を果たす時が来たようだ。ところが、当の本人はこの期に及んで、主に対して『もしあなたが仰せられたように』と、神の召しのことばの確証を求めた(6:36-)。二度目は特に恐縮しつつも、一頭の羊の毛と露とにより、二度にわたってしるしを求めた。 結局、主は二度とも彼の求めに応え、まして御怒りを燃やしたとは言われていない。ここに主の忍耐と寛容を思う。主のみことばは真実で、どんな時でも信頼するにふさわしいものだ。一方、神のことばを素直に受けとめることにおいて、私たちはなお、主の忍耐と寛容、憐れみを必要としている。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
礼拝後は昼食もご一緒して、午後の話し合いと続きました。
その「話し合い」の時間ですが、牧会を考えるための学びの時間も設けました。
それから、年末に向けての諸行事や来年度のことを検討しました。
また、昨日は話の流れから、出席者の互いの近況などを簡単に分かち合う時も持ちました。
限られた時間ではありますが、有意義でした。
ところで、昨日の話し合いの中で、このブログのことも、たまたま話題になりました。
更新も内容も、まとまりなく「マイペース」ですし、それほど積極的にこのブログを宣伝してるわけでもないのですが、「読んでます」「見つけましたよ」という声をかけてくださいます。
こうしてブログを続けていることで、何かのお役に立てているのなら、それも私にとってうれしいことです。
さて、月末を迎えますので、今月の礼拝説教のあらすじも掲載しておきます。
2017年9月 旧約聖書の講解説教 士師記6章
新約聖書(ヘブル11:2)「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」とし、士師記に登場するギデオンも、そこに名を連ねる(同32)。主は、イスラエルをミデヤン人の手から救うためにギデオンを召した(6:14)。次に主が求めたのは、身近なところでの具体的な応答の一歩。父ヨアシュが持つバアルへの祭壇などを取り除き、主への祭壇を築いて、いけにえをささげることだった(6:25,26)。これらの記述に当時のイスラエルの霊的退廃ぶりが伺われる。その夜のうちにギデオンは 『主が言われたとおりにした』ものの、(6:27b)「彼は、父の家の者や、町の人々を恐れた」とある。ギデオンにしてみれば、自分の置かれた環境の中で、予想される反対や迫害への恐れも抱えつつ、主への応答の一歩を踏み出した。信仰による応答の一歩には恐れも伴う。若く、経験も乏しければなおのことだ。しかし、実生活で主への応答の一歩を踏み出す者を、主は守り、用いてくださる。
神のことばへの信頼をテーマに考えたい。神は、そのことばをもって、人を召し、導き、お用いになる。一方で、私たちの心は何と迷いやすく、疑い深く、煮え切らないものだろうか。これまでのところで、主はギデオンを召し、導き、整えてこられた。彼によって、ミデヤン人の手からイスラエルを救うべく、準備を進めてきた。ここで聖書は、ミデヤン人らの動きを記し(6:33)、その上、主の御霊がギデオンをおおったとし(6:34)、民の諸部族から協力する者たちも集まり始めたと伝えている(6:35)。今や、ギデオンがその使命を果たす時が来たようだ。ところが、当の本人はこの期に及んで、主に対して『もしあなたが仰せられたように』と、神の召しのことばの確証を求めた(6:36-)。二度目は特に恐縮しつつも、一頭の羊の毛と露とにより、二度にわたってしるしを求めた。 結局、主は二度とも彼の求めに応え、まして御怒りを燃やしたとは言われていない。ここに主の忍耐と寛容を思う。主のみことばは真実で、どんな時でも信頼するにふさわしいものだ。一方、神のことばを素直に受けとめることにおいて、私たちはなお、主の忍耐と寛容、憐れみを必要としている。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。