マイペースで行こう

キリスト教会の牧師のブログです。更新も内容もマイペースですが、19年目に入りました。

環境の変化の中で

2018-04-05 16:44:34 | 教会の風景
新年度が始まっていますが、これまでとの生活環境の変化がありますので...
今はまだ、イレギュラーな感覚が拭えないところです。

当面は、自分の本や書類、データなどの整理もしながら、仕事のスケジュールや生活のペースを整えていきたいところです。
でも出来るだけ早く、教会の新たなプログラムや自分なりの研究課題への取り組みのための時間、健康管理のための運動の時間も確保していきたいと思っています。




ある日の礼拝の講壇に飾られた生花です。



旧約聖書から語った、礼拝説教のあらすじもアップしておきます。

2018年2月の礼拝説教(旧約聖書の講解分) のあらすじ 士師記11-12章
 『主の霊がエフタの上に下った』(11:29)とき、エフタはアンモン人をめがけて、「…通り、…通って、…進んで行った」と言われるとおり、突き進んだ。この記述は注目に値する。なぜなら、それまでの主はイスラエルに対して「これ以上救わない」(11:13)とまで言っておられた。しかし、この(11:29)からすると、主はエフタを用いてイスラエルを救おうとしており(3:9,10も比較参照)、決して見捨てていない。一方、この時のエフタは、凱旋時に最初に自分を迎える者をいけにえとして主にささげる、という不可解な誓願を立てた。主がお求めになっていないことを条件としたところに、主に対する誤解や信頼の脆さを垣間見る。結果として、主の与えてくださった大勝利を喜ぶべきときに、深い悲しみを味わった(11:34-40)。
 敵の支配を脱したばかりのイスラエルにとって、『一難去ってまた一難』となる事態が訪れる。アンモン人を屈服させた功労者とも言えるエフタに、エフライム人は「私たちに呼びかけなかった」と苦情を申し立てた(12:1)。彼らに対するエフタの応対にも、過去のわだかまりが見られる(12:2,3)。同族間にあった根深い偏見、優越感と軽蔑が、争いへと発展してしまった(12:4)。彼らの偏見には、その時代に至るまでの歴史や地理的条件が関係しているようだ。私たちは、こうした偏見がこの時代だけのものではないと知っている。主の民イスラエルばかりでなく、教会の歴史にも、私たちの信仰生活と日常の中にも入り込んでいる。御霊に導かれ(ガラテヤ5:13-26)、満ち足りる心を持つ(Ⅰテモテ6:3-6)お互いでありたい。

2018年3月の礼拝説教(旧約聖書の講解分) のあらすじ 士師記13章
 士師記はイスラエルの歴史を正直に伝える。主の民でありながら、くり返し主に背いて、神々を崇拝する悪を行ってきた。再びその様子が伝えられる(13:1)。主はイスラエルを懲らしめるために、ペリシテ人を用いられた。それは40年間にも及んだ。ところが、これまでは苦しみの中で主に立ち返っていたはずなのに、この時代については「主に叫んだ」という記録さえない。苦しみの中でも主に仕えようとしない有様に、その時代の霊的混乱と堕落ぶりが反映されているようである。しかし、主はその時代にも一人の士師を立てるべく、子供がいなかったマノアの妻に御使いを遣わし、男子の誕生を告げた(13:2,3)。その子はナジル人として育てられ、イスラエルを救うことも伝えられた。このように、一方的な主の恵みによる救いが備えられていた。私たちは、こうした経緯に『人の悪と主の救いの現実』を見る。
 妻が夫マノアに知らせると、マノアは自分でも直接聞きたかったようで、主に願った。主は彼の願いどおり、再び御使いを遣わした。どうやら二人はその御使いを「神の人」、つまり預言者だと思っていたようだ(13:15)。とは言っても告げられたことを疑っていたわけではなく、マノアは妻から聞いたことばを純粋に信じていた(13:12)。また、御使いがいけにえの炎の中を上っていくという不思議な光景を見るに至っては、地にひれ伏したとも伝えられる(13:20)。ところが今度は、この神秘的な経験をしたために自分は必ず死んでしまうとマノアは言い出した。もちろん、賢明な妻が夫を諭すことばのとおり、それは見当違いである。純粋であるものの、滑稽にも映るマノアの姿から『神への恐れと正しい知識』とを兼ね備えることの大切さを思う。


最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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