今度の礼拝説教のダイジェスト
■創世記9:18-29
登場人物は、ノアと3人の息子セム、ハム、ヤペテ。
大洪水の後、ノアは350年生きたと聖書は伝えている。
その間の出来事が聖書に一つ記録されている。
ノアは自分の造ったぶどう園のぶどうでワインを作り、それを飲んで泥酔した。
泥酔したノアは、自分のテントで裸になっていたらしい。
息子のハムが第一発見者となり、彼は自分の兄弟へ父の失態を告げる。
セムとヤペテは、父の裸を見ないようにして、父に服をかけた。
ノアが酔いから覚めた後、息子たちのやり取りを知る。
そこで言う。
「呪われよ。カナン。ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンはしもべとなれ。」
以上がおおよその流れ。
さて、この話はなぜ聖書に記録されているのか?
単に「お父さんを大事にしなさい。お父さんを立てなければいけないよ。そうでないと、罰があるよ。」ということなのだろうか?
そういう教訓をここから教えるためだったのだろうか?
答えはNO!
誤解のないように補足説明。
確かに聖書はお父さんを敬うべきだと教えている。
「父と母を敬え」というのは十戒の中の一つに数えられている。
でも、ここでの伝えたいポイントは別のところにある。
ノアは「呪われよ。ハム。」とは言わなかった。
「カナン」と言った。
この記事の前後に、ハムはカナンの父だと断りが入れてあるのも気になるところ。
このカナンの子孫は、後にイスラエル民族にとって約束の地となる場所に先住民として住み着く。
やがて、ヨシュアをリーダーにして、イスラエルはカナンの地を征服していく。
その様子はヨシュア記に記録されている。
それを考えると、ノアが「カナンは彼らのしもべとなれ。」と3回も言っているのも偶然とは思えない。
ノアは、単に自分の感情で怒って言ったのではなく、むしろ将来の預言的な言葉として語ったのだ。
聖書があえてノアの個人的とも思われるような発言を伝えているのも、そこに理由がある。
加えて、ノアは自分に恥をかかせないようにと配慮したセムとヤペテを直接褒めてはいない。
よく見ると「ほめたたえよ。セムの神、主を。」となっている。
セムとヤペテに向かって「おまえたちは立派な息子だ。」と言っているわけではない。
ここで称賛の対象となっているのは、セムの神、主である。
ちなみにセムの子孫からアブラハムが出、イスラエル民族が生まれてくる。
それが分かると、先のカナンへの呪いとイスラエルの神である主という構図が見えてくる。
この記事から、神様の選びの民という旧約聖書の流れが、少しずつ浮かび上がってくる。
神様の選びの計画の深さを覚えずにはいられない。
このノアのカナンへの呪いの記事は、単なる道徳的な話であるというより、神様の選びという奥の深い話であると言える。
神様の主権の下で行なわれる選び。
主を信じる者ならば誰しも思うであろう、私が救いと祝福の中に入れられている、という驚きを引き起こす。
まだ何の働きもしていない者をも、救いに導かれるように定めた主の選びの神秘的な深さは到底測り知れない。
あまりに一方的な恵みとしか言いようのないもの。
選んでくださった主への感謝を覚える。
■創世記9:18-29
登場人物は、ノアと3人の息子セム、ハム、ヤペテ。
大洪水の後、ノアは350年生きたと聖書は伝えている。
その間の出来事が聖書に一つ記録されている。
ノアは自分の造ったぶどう園のぶどうでワインを作り、それを飲んで泥酔した。
泥酔したノアは、自分のテントで裸になっていたらしい。
息子のハムが第一発見者となり、彼は自分の兄弟へ父の失態を告げる。
セムとヤペテは、父の裸を見ないようにして、父に服をかけた。
ノアが酔いから覚めた後、息子たちのやり取りを知る。
そこで言う。
「呪われよ。カナン。ほめたたえよ。セムの神、主を。カナンはしもべとなれ。」
以上がおおよその流れ。
さて、この話はなぜ聖書に記録されているのか?
単に「お父さんを大事にしなさい。お父さんを立てなければいけないよ。そうでないと、罰があるよ。」ということなのだろうか?
そういう教訓をここから教えるためだったのだろうか?
答えはNO!
誤解のないように補足説明。
確かに聖書はお父さんを敬うべきだと教えている。
「父と母を敬え」というのは十戒の中の一つに数えられている。
でも、ここでの伝えたいポイントは別のところにある。
ノアは「呪われよ。ハム。」とは言わなかった。
「カナン」と言った。
この記事の前後に、ハムはカナンの父だと断りが入れてあるのも気になるところ。
このカナンの子孫は、後にイスラエル民族にとって約束の地となる場所に先住民として住み着く。
やがて、ヨシュアをリーダーにして、イスラエルはカナンの地を征服していく。
その様子はヨシュア記に記録されている。
それを考えると、ノアが「カナンは彼らのしもべとなれ。」と3回も言っているのも偶然とは思えない。
ノアは、単に自分の感情で怒って言ったのではなく、むしろ将来の預言的な言葉として語ったのだ。
聖書があえてノアの個人的とも思われるような発言を伝えているのも、そこに理由がある。
加えて、ノアは自分に恥をかかせないようにと配慮したセムとヤペテを直接褒めてはいない。
よく見ると「ほめたたえよ。セムの神、主を。」となっている。
セムとヤペテに向かって「おまえたちは立派な息子だ。」と言っているわけではない。
ここで称賛の対象となっているのは、セムの神、主である。
ちなみにセムの子孫からアブラハムが出、イスラエル民族が生まれてくる。
それが分かると、先のカナンへの呪いとイスラエルの神である主という構図が見えてくる。
この記事から、神様の選びの民という旧約聖書の流れが、少しずつ浮かび上がってくる。
神様の選びの計画の深さを覚えずにはいられない。
このノアのカナンへの呪いの記事は、単なる道徳的な話であるというより、神様の選びという奥の深い話であると言える。
神様の主権の下で行なわれる選び。
主を信じる者ならば誰しも思うであろう、私が救いと祝福の中に入れられている、という驚きを引き起こす。
まだ何の働きもしていない者をも、救いに導かれるように定めた主の選びの神秘的な深さは到底測り知れない。
あまりに一方的な恵みとしか言いようのないもの。
選んでくださった主への感謝を覚える。