月報1月号に掲載した、アドベント期間中の説教のあらすじです。
キリストが来られた目的というテーマで学びました。
福音書で紹介されている、主ご自身のことばを取り上げてみました。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)は、弟子たちの抱く権威に対する誤解を指摘している。
エルサレムに向かう道中の弟子たちの間には、依然として世俗の権威から連想される権力志向があった。
しかし、主の教えによれば、世の権威の理解と神の国における真の権威には相違がある。
本来の権威、リーダーシップは、しもべとして生きるところにある。
主ご自身がこの世に来られた目的もそのためであった。
この世でしもべとなった主の究極的な姿は、ご自分のいのちを贖いの代価として与えるという、十字架の死であった。
「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:9-11)は、主と人との関係を羊飼いと羊の関係にたとえられた(10:1-5)。
また、それに続くたとえの説明で、ご自身を羊の囲いの門と良い羊飼いと呼ばれた。
門は、識別(1,2)と保護(9)のイメージを想起させる。
羊飼いは、親しく(3,14)、頼りになる(4a,11,15b)同伴者を想起させる。
主は、人を真の意味での平安と希望に至る豊かな歩みへと導く。
人をいのちに導くための、主の十字架の死と復活は、主の権威による出来事であり、父なる神の命令によるものである(17,18)。
キリストが来られた目的というテーマで学びました。
福音書で紹介されている、主ご自身のことばを取り上げてみました。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)は、弟子たちの抱く権威に対する誤解を指摘している。
エルサレムに向かう道中の弟子たちの間には、依然として世俗の権威から連想される権力志向があった。
しかし、主の教えによれば、世の権威の理解と神の国における真の権威には相違がある。
本来の権威、リーダーシップは、しもべとして生きるところにある。
主ご自身がこの世に来られた目的もそのためであった。
この世でしもべとなった主の究極的な姿は、ご自分のいのちを贖いの代価として与えるという、十字架の死であった。
「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:9-11)は、主と人との関係を羊飼いと羊の関係にたとえられた(10:1-5)。
また、それに続くたとえの説明で、ご自身を羊の囲いの門と良い羊飼いと呼ばれた。
門は、識別(1,2)と保護(9)のイメージを想起させる。
羊飼いは、親しく(3,14)、頼りになる(4a,11,15b)同伴者を想起させる。
主は、人を真の意味での平安と希望に至る豊かな歩みへと導く。
人をいのちに導くための、主の十字架の死と復活は、主の権威による出来事であり、父なる神の命令によるものである(17,18)。