礼拝説教のダイジェスト
聖書箇所 創世記36章
「違いはどこに?」
この章はエサウとその子孫の系図が記録されている。
エサウはセイルの山地に定住した。
エサウも豊かな財産を所有するようになる。
そして、彼の子孫も繁栄し、王国を築いていった。
ここで一つの疑問が浮かぶ。
「ヤコブが神の祝福を受け、エサウは神の祝福を受けられなかったはずでは?」
しかし、実際はエサウも大家族となり、子孫が繁栄していった。
神の祝福を受けなくても、エサウは豊かで繁栄したのではないか?
それならば、神の祝福とは一体何なのか?
このような問いを持つ時点で、その人は決定的な誤解を抱いている。
そして、その誤解は、どの時代の信仰者も陥りうるものだったと言える。
詩篇73篇の作者も一度はその誤解に陥った。
またマラキ3:13-15でも、神の民でありながら神の祝福に対する誤解を抱いていた人々の姿が示されている。
「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。今、私たちは高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行っても栄え、神を試みても罰を免れる。」
しかし、誤解を抱く人々は一面しか見ていない。
その後マラキ3:17-18に続く、主を恐れる者たちに語られた言葉。
「彼らは、わたしのものとなる。― 万軍の主は仰せられる。 ―わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。」
神に選ばれ、神の祝福を受けた者たちに注がれる主の眼差し。
もちろん主の備えの中で実際的な必要が満たされることは感謝である。
しかし、神との交わりの中に入れられたこと自体が祝福の中心である。
財産や権力、成功や名声それ自体は、特別に神が選んだ人々にぜひ与えたいと思っているものではない。
それらは神を信じようとしない人々にも持つことが許されている。
新約聖書のへブル書では「エサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」と警告されている。
ここで使われている「俗悪な」という語は、もともとの語の成り立ちは「だれでも入ることができる」というもの。
エサウは、選ばれた人だけに与えられる神からの祝福(神との交わり)よりも、だれでも可能な自分の欲望の充足を追求した。
神様との交わりという点において、ヤコブとエサウの間には決定的な違いがある。
そして、旧約聖書は、ヤコブの子孫と神様との関わりに注目が向けられていく。
神様がどのようにイスラエルの人々と接したのか?が重要な視点となる。
天の父なる神様、あなたの与えてくださった祝福を感謝します。
あなたを知ることが許され、あなたの愛と恵みを受けていると知ることは本当に大きな喜びです。
世の中ばかりではなく、教会の中にさえ間違った「祝福」のイメージがあります。
どうか私たちの心と思い、知性を正して、お守りください。
さらにあなたのみこころを教え、導いてください。
イエス様の御名によって祈ります。 アーメン。