レッスンを行っていると、
「お!はまった!」
という感覚があります。
何かを伝えて、それがその子のどこかとがっちりはまって伝わった!という感覚。
なんともいえない嬉しさがあります。
ただ、それだけでは上達しません。
そこで得た感覚と実際の動きが連動しないといけない、
そしてそれを自分の意図したようにコントロールすることによって技術の習得になる、
と最近は考えています。
それがなかなか難しい(笑)
どうしても継続ってむずかしい。
しかも、なかなかできないし(笑)
そんなとき、助けになるのは、
その子がもっている、「この曲、上手に弾けるようになりたい!」という思い。
これがある子は本当に強い。
弾けなくてもあきらめることをしないので。
ピアノって、だいたい誰でもオトを出すことができるので、それだけ楽器演奏のハードルは低いと思います。
それに比べると吹奏楽器は音を出すまでの苦労だったり、弦楽器だったら音程を正しく出すまでの苦労だったり。
でも、それだけ簡単に音を出せるってことは、苦労しないで音を出せるだけ、早くあきらめやすい、とも言えると思います。
そのときに、あきらめない力を持っている子は、強い。
ただ、この「この曲、上手に弾けるようになりたい!」の裏やそばになにか別のものがあると、それはそれでやっかい。
例えば、「弾けるようになったら、褒められる」「弾けなかったら怒られる」「とりあえずピアノに触っていればいやな時間がおわる」
だと、その子の個性を十分に発揮する演奏というのは難しいと思います。
具体的には、
「弾けるようになったら、褒められる」→ほめられることに魅力がなくなれば、ピアノなんてやらない
「弾けなかったら怒られる」→怒られるのに慣れてこわくなくなれば、ピアノなんてやらない
「とりあえずピアノに触っていればいやな時間がおわる」→音が正しかろうが間違えていようが、関係ない。だから、間違えがなかなかなおらず上達しない
そこにはまらずにいくには、やっぱり本人の気持ちが一番ですし、周りがそういう意味で強制しない環境というのも大事なのかな、とも思います。
確かに、スパルタは一時的な技術を短時間で習得するには、効率は良いのですが、長い目でみると、うーん、と思います。
だから、先生はその子が自分でやりたい!と思う曲を提案すること、やりたい!と思うような基礎力をつけること、が結局は大事なんだと思うわけです。
「お!はまった!」
という感覚があります。
何かを伝えて、それがその子のどこかとがっちりはまって伝わった!という感覚。
なんともいえない嬉しさがあります。
ただ、それだけでは上達しません。
そこで得た感覚と実際の動きが連動しないといけない、
そしてそれを自分の意図したようにコントロールすることによって技術の習得になる、
と最近は考えています。
それがなかなか難しい(笑)
どうしても継続ってむずかしい。
しかも、なかなかできないし(笑)
そんなとき、助けになるのは、
その子がもっている、「この曲、上手に弾けるようになりたい!」という思い。
これがある子は本当に強い。
弾けなくてもあきらめることをしないので。
ピアノって、だいたい誰でもオトを出すことができるので、それだけ楽器演奏のハードルは低いと思います。
それに比べると吹奏楽器は音を出すまでの苦労だったり、弦楽器だったら音程を正しく出すまでの苦労だったり。
でも、それだけ簡単に音を出せるってことは、苦労しないで音を出せるだけ、早くあきらめやすい、とも言えると思います。
そのときに、あきらめない力を持っている子は、強い。
ただ、この「この曲、上手に弾けるようになりたい!」の裏やそばになにか別のものがあると、それはそれでやっかい。
例えば、「弾けるようになったら、褒められる」「弾けなかったら怒られる」「とりあえずピアノに触っていればいやな時間がおわる」
だと、その子の個性を十分に発揮する演奏というのは難しいと思います。
具体的には、
「弾けるようになったら、褒められる」→ほめられることに魅力がなくなれば、ピアノなんてやらない
「弾けなかったら怒られる」→怒られるのに慣れてこわくなくなれば、ピアノなんてやらない
「とりあえずピアノに触っていればいやな時間がおわる」→音が正しかろうが間違えていようが、関係ない。だから、間違えがなかなかなおらず上達しない
そこにはまらずにいくには、やっぱり本人の気持ちが一番ですし、周りがそういう意味で強制しない環境というのも大事なのかな、とも思います。
確かに、スパルタは一時的な技術を短時間で習得するには、効率は良いのですが、長い目でみると、うーん、と思います。
だから、先生はその子が自分でやりたい!と思う曲を提案すること、やりたい!と思うような基礎力をつけること、が結局は大事なんだと思うわけです。