ヌスラ戦線を除くイスラム諸派が大同団結しようという試みは2012年秋に始まった。しかしスクール・シャム旅団を中心とするグループとアフラール・シャムを中心とする2つの集団に分裂した。2013年11月22 日2つの大集団が合流し、イスラム諸派の統一戦線=イスラム戦線が成立した。これにより、反対派には3つの極が生まれた。ヌスラ戦線・ISIS・イスラム戦線である。自由シリア軍は戦闘部隊としては意味を失った。彼らは政治活動家・社会活動家としては一定の役割をになうだろう。
最初にイスラム諸派の統一を試みたのはスクール・シャムであり、2012年年9月、シリア・イスラム解放戦線が成立した。スクール・シャムはアフラール・シャムとリワ・イスラムと共に、多数のイスラム主義グループの中の3強である。
またスクール・シャムの指導者アブ・イッサもシリアではよく知られている。ウイキペディア(日本版)の「サイドナヤ刑務所」という項目に次のように書かれている。
「2011年の反政府デモの数カ月後(英語版)、様々な恩赦で多くのイスラム主義収容者が釈放されたが、ザーラン・アルーシュ、アブ・シャーディ・アブード(ハッサン・アブードの兄弟)やアームド・アブ・イッサといった著名な受刑者も釈放されていて、釈放後シリア内戦においてジャイシュ・アル=イスラム、アハラール・アル=シャーム・イスラム運動、スクール・アル=シャム・ブリゲードといったイスラム主義反政府グループを率いている。
また、当刑務所を含むシリアの刑務所では拷問や栄養失調、公平な裁判無しの独断的な死刑といった勾留者への非人道的な扱いが繰り返し報告されている。
『サイドナヤ刑務所に送られた勾留者の70%が生きて帰れておらず、軍法会議による裁判のほとんどは秘密警察によって決められてしまう』」。
ジャイシュ・イスラムとスクール・シャムの指導者が釈放されたことは物議を呼んでいる。反アサド国民運動をイスラム過激派によるテロと見せかけるため、アサド政権はわざと彼らを釈放した、というのである。
ウイキペディア(英語版)に「スクール・シャム」の項目があるので抜粋する。
======《As Suquor al-Sham 》==========
スクール・シャム旅団はアレッポ県とイドリブ県で活動し、2013年6月には17の下位グループを率いていた。彼らは道路の脇に爆弾を仕掛け、シリア軍に損害を与えることで有名になった。彼らは狡猾であり、釈放したシリア軍捕虜の車に爆弾を仕掛け、自由になった捕虜の車がシリア軍の検問所に帰りついた時、遠隔操作で爆破した。2012年の半ばまで、彼らは自爆攻撃をしなかった。
スクール・シャム旅団は2011年9月、アフマド・アブ・イッサによってイドリブ県のザウィーヤ地方のSarjehという町で結成された。
彼は4か月前サイドナヤ刑務所から釈放されたばかりだった。彼の旅団はシリア軍からの離脱者と一般市民の混成部隊だった。グループのウエッブ・サイトによれば、旅団は離脱兵の部隊と市民部隊とに分かれていた。市民部隊の指導部は顧問(シューラ)会議と呼ばれ、アブ・イッサが議長だった。市民部隊は軍事物資・食料の調達とプロパガンダを担当した。戦闘部隊は独立しているが、市民部隊のアドバイスに基づいて行動した。
スクール・シャムは「自分たちは自由シリア軍の一部である」としており、「シリア国民会議は国際社会においてシリア革命を代表する組織である」と認めている。しかしながら「シリア国民会議は自分たちに命令する権限はない」と考えている。
2013年9月、スクール・シャムと多数のグループが自由シリア軍との決別を表明した。
「シリア国民会議は我々の代表ではない。我々はシリア国民会議をゴミ箱に捨てる」。
続いて12月、スクール・シャムの指導者が自由シリア軍と決別を表明した。
「我々は、もはや自由シリア軍とは無関係である」。
スクール・シャムとシリア国民会議・自由シリア軍との関係を説明するため、2013年にまで話が及んだが、2012年について、もう一つ書かねばならない。
2012年8月スクール・シャムやファルーク旅団をはじめとして、多数のイスラム主義旅団が合同し、シリア・イスラム解放戦線が成立した。アブ・イッサが指導者になった。アブ・イッサアブ・イッサによれば、戦闘員の総数は4万を超えるという。また彼は「イスラムの教えに沿った国家の建設を目標としている」と述べた。「イスラムの教えに沿った」というあいまいな表現により、イスラム法をそのまま実定法にするつもりはない、と彼は暗に示している。
2014年の1月、多数の反対派グループとISILとの間であからさまな戦争が起きた。最初ISILが完敗し、支配地から逃走したが、半月もたたないうちにISILは反撃に出た。その後徐々に支配地を奪回した。ISILとの戦いの過程で、スクール・シャムは目に見えて弱体化した。
2014年1月スクール・シャムの宗教指導者アブ・アブデル・ラフマンは血なまぐさい殺し合いに抗議し、グループを去った。
2014年2月スクール・シャムの軍事部門の最高指揮官アブ・フセイン[本名Mohammed al-Dik)がISILに襲われ、死亡した。
同じく2月スクール・シャムの参謀長と最初からの構成グループであるSuyouf al-Haq旅団が無断でISILと停戦した。その後参謀長とSuyouf al-Haq旅団はスクール・シャムから離脱した。
(スクール・シャム旅団はいくつかの旅団によって結成された。旅団は複数形である)
Suyouf al-Haqは先に離脱していた Liwa Dawoodに合流した。
リワ・ダウード(Liwa Dawood)はスクール・シャムの強力なメンバーだったが、2013年に離脱し、新しいグループ(ジャイシュ・シャム)をたちあげた。
こうして勢力を失ったスクール・シャムは2015年夏、アフラール・シャムに合流した。
2015年3月イドリブ県を中心にシリア北西部の制圧をめざし、ジャイシュ・ファタハ(征服軍)が結成された。これはロシア軍の空爆下で反対派が戦線を維持する努力であり、ヌスラ戦線とアフラーラール・シャムがまず同盟した。この同盟を軸に各派が集合した。サウジアラビアはジャイシュ・ファタハ(征服軍)を積極的に支援した。
2016年9月スクール・シャムはアフラール・シャムから去り、ジャイシュ・ファタハに参加した。
2017年1月25 日アフラール・シャムがヌスラ戦線と戦闘になった時、スクール・シャムはアフラール・シャムの側で戦った。
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