たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ファルーク旅団(ホムス)②

2018-01-22 23:30:06 | シリア内戦

 

2013519日反対派はクサイルで完敗し、続いて712日ホムスから一掃された。クサイルとホムスの反対派のその後が気になっていたが、湯川陽菜さんが2014年の春クサイルからシリアに入っており、クサイルの反対派ルートはまだ健在なようだった。

また2015730日ホムスを拠点とするファルーク旅団について書かれた記事がある。この記事は前々回紹介した。以上の2点から、ホムスの反対派はまだ健在なのかもしれないという疑問が生まれた。ウイキペディア(英語版)にファルーク旅団の項目があり、それによればファルーク旅団は2014年に消滅している、という。

 

========《The Farouq Brigades》========

                 wikipedia

ファルーク旅団は内戦の初期ホムスを拠点とする自由シリア軍のメンバーによって結成された。2012年急速に規模が大きくなり、名声が高まった。その後内部分裂と戦場での敗北により、2013年にはかつての影響力を失った。

2014年、残存構成員が他のグループに流れ、ファルーク旅団はほぼ消滅した。

                〈旅団成立から2012年9月まで〉

旅団の名前は第2代カリフ、ウマルに由来している。ウマルはムハンマドの側近であり、アブ・バクルを継いでカリフとなった。彼は信仰心が篤くイスラムの教えに忠実であり、ファルーク(善悪を区別する人)と呼ばれていた。

デモの開始(20113月)から数か月後、ファルーク旅団が組織された。最初は独立したグループではなく、シリア軍からの離脱兵からなる旅団(ハリド・イブン・ワリド)に従属していた。

ハリド・イブン・ワリド旅団(Khalid ibn al-Walid Brigade)は20116月に成立していた。ほとんど平和なデモの段階であった時期に、ハリド・イブン・ワリド旅団はホムスとラスタンでシリア軍と衝突し、有名になった。

 

 

2011年の後半ファルーク旅団はホムスのババ・アムル地区を中心に活動していた。旅団の構成メンバーは約3000名だった。

 

 

ファルーク旅団の指導者はシリア軍から離脱した中尉アブドル・ラザク・タラスである。彼の叔父ムスタファ・アブドゥル・カディール・タラス(Mustafa Abdul Qadir Tlass) 30年間(1972 年ー 2004年)国防大臣を務めた。

 

  

 

ファルーク旅団がホムス市の一画を支配していることは、政権にとって我慢できないことだった。2012年の早い時期にシリア軍はババ・アムルへの攻撃を強めた。反乱軍は多くの犠牲を出し、ホムスの田園地帯やラスタン・クサイルなどの都市に撤退した。

ババ・アムルから撤退を余儀なくされたものの、その後数か月ファルーク旅団は組織の拡大に努めた。シリア各地で新たに反乱グループが誕生しており、彼らを自分たちの仲間にした。また以前から存在しているグループも引き込んだ。こうしてファルーク旅団はヨルダンとの国境地帯とトルコとの国境地帯まで、広い地域に仲間を持つことになった。トルコとの国境地帯で活動するファルーク・シェマル旅団はグループはいくつかの国境検問所を支配していた。ファルーク・シェマル(Farouq al-Shemal)旅団は北のファルークと呼ばれている。

20129月・ファルーク旅団やスクール・シャムなど、多数のイスラム主義グループが集まり、シリア・イスラム解放戦線を創設した。イスラム解放戦線の指導者によれば、構成員は4万人を超えており、彼らはイスラムの教えに沿った国家建設を目ざしているという。20135BBCはイスラム解放戦線の人数を2万人と推定している。

201311月イスラム解放戦線に代わり、新たに「イスラム戦線」が成立した。しかしファルーク旅団はこれに参加しなかった。

ワシントン・インスティチュートのジェフリー・ホワイトと戦争研究所(ISW)のジョセフ・ホリデイによれば、ファルーク旅団は穏健なイスラム主義グループであり、世俗主義とイスラム原理主義の中間に位置している。戦闘員の多くがジハードのスタイルをし、黒のはち巻をしてひげを生やしているが、彼らの信仰心はそれほどでもなく、湾岸の信仰心厚い支援者からの資金目当てであるようだ。

ファルーク旅団には宣伝部門があり、彼らの戦闘場面を撮影し、YouTubeFacebookに投稿している。それらの写真や映像には旅団のロゴが張られており、映っているのが彼らであることが識別できる。これは資金集めのためである。資金提供者は多様であり、シリア人、湾岸の富裕層、西側諸国、イスラム主義団体などである。

20124月ファルーク旅団はホムスのキリスト教住民の地区でジズヤを徴収した、と批判された。ジズヤとはイスラム支配下の非イスラム教徒に課される税金である。キリスト教徒やユダヤ教徒はそれほど高くない税金を払えば、イスラム教に改宗しなくてもよかった。

ジズヤ徴収を批判されたファルーク旅団は「そんなことはしていない」と否定した。ISW(戦争研究所)は「この批判をしているのはアサド政権だ」と書いている。

ファルーク旅団による他宗派迫害問題はこれで終わらず、ホムス市のキリスト教住民の90%を追放したという報告がなされた。これに対しホムスのイエズス派は反論している。

「彼らは追放されたのではなく、戦闘を避けて避難したのだ」。

マクラッチ新聞(McClatchy Newspapers)はレバノンに避難したキリスト教徒に聞き取りをしたが、彼らは「キリスト教徒であるという理由での迫害はなかった」と答えている。「ただしファルーク旅団が政権と結びつきのあるキリスト教徒を多数逮捕したため、同じ地区に住むキリスト教徒たちが逃げた例はある」。

20129月シリア北部のファルーク旅団が外人部隊を率いるイスラム原理主義者Abu Mohamad al-Absiを誘拐した。北部旅団の司令官は誘拐の理由を述べた。「彼ら(外国人グループ)はバブ・ハワの検問所を明け渡すよう要求したが、応じなかった。アブシはアルカイダの旗を掲げた。我々はアルカイダを歓迎しない」。

====================(wikipedia中断)

 

 

トルコとシリアの長い国境線には、いくつもの検問所があるが、バブ・ハワの検問所は最も重要なもののひとつである。バブ・ハワの越境地点がシリア内戦に果たした役割は大きい。資金と武器がトルコからバブ・ハワに入り、シリアの反対派に配布された。自由シリア軍を統括する最高軍事評議会の現地本部はバブ・ハワにある、武器庫もある。バブ・ハワ経由の供給はアレッポ西方とイドリブ北部の反対派を支えた。アレッポ西方からイドリブにかけて強力な反政府軍が存在するため、シリア軍のアレッポ作戦は困難になった。ホムスから北上するシリア軍に対し、この地域が防波堤となったため、アレッポの北方は反対派の天国になった。

ホムスを拠点とするファルーク旅団がバブ・ハワの検問所を支配しようとしたことは、彼らの勢力の伸長を示している。

後半は201210月以後のウイキペディアを続ける。201210月以後のファルーク旅団についてであるが、2012年の最後の3か月についての記述は少なく、2013年の最初の話題は、元ファルーク旅団の指揮官がシリア軍兵士の心臓を切り取った事件である。この事件についてはすでに書いたが、並はずれて野蛮な行為をした指揮官がいた、という単純な話ではないようだ。シリア内戦の残酷さの一片にすぎない、とウイキペディアは教えてくれる。内戦の本質をかいま見る思いである。

 

====《The Farouq Brigades(続き)》======

    〈2012年9月ー2013年5月〉

201210月ファルーク旅団の指導者の一人であるアブドゥル・ラザク・タラス元中尉が更迭された。彼に代わったのはAbu Sayeh Juneidiである。

10135月、反対派の司令官アブ・サッカルがシリア軍兵士の内臓を切り取り、それを口に入れようとする動画が公開された。彼は彼を見習うことを反対派にすすめ、アラウィ派に恐怖を与えるよう誘った。シリア人権監視団によれば、アブ・サッカルはファルーク旅団に所属しておらず、独立のオマル・ファルーク旅団の司令官である。

しかしBBCはオマル・ファルーク旅団はファルーク旅団の下位グループである、としている。ファルーク旅団は多数に枝分かれした家系図のように互いにつながっている諸グループの集合である、という。

自由シリア軍の参謀長はアブ・サッカルの行為を非難した。アブ・サッカルのグループが自由シリア軍に所属するかどうか、不明である。自由シリア軍は命令系統がないも同然であり、どのグループが所属しているのか否かについても、あいまいである。

アブ・サッカルは裁判にかけられるべきだ、とシリア国民連合は表明した。自由シリア軍の最高軍事評議会は彼の逮捕を命令した。一方アブ・サッカルは次のように弁明している。

「あれは復讐だった。あのシリア軍兵士の携帯電話にビデオが収録してあった。あの兵士母親と2人の娘を凌辱していた。別のビデオでは、アサドの兵士が女性を辱め、人々を拷問し、身体を切断し、殺していた。子供たちまでもそのようにされた」。

201646日アブ・サッカルはラタキア県でシリア軍によって殺された。その時彼はヌスラ戦線と共に戦っていた。

01311月までに、ファルーク旅団は衰退し、多くの小さなグループに分裂した。その結果勢力圏を著しく縮小した。ファルーク旅団はラッカから追い出され、トルコからラッカへの入り口の町であるテル・アビヤドを失った。その後も旅団の分裂は止まらず、ファルーク旅団はほぼ消滅した。

=================(wikipedia終了)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする