タラビヤド空爆
ISISに参加するため、ヨーロッパからの志願兵がシリアに来ていることはよく知られている。
逆にISISを倒すために、ヨーロッパからの志願兵がYPGに参加 していることは、ほとんど知られていない。YPGに参加する志願兵が所属する部隊は、「ロジャバのライオン」と呼ばれる。
彼らは6月15日のタラビヤドの戦闘に参加した。
タラビヤドの戦いは、ISISの敗北となり、クルドに勝利をもたらした。クルドはジャジーラとコバニの2州を結合することに成功した。
シリアのクルドは西クルドとも呼ばれる。彼らは自分達をロジャバと呼ぶ。ロジャバの土地は3つの飛び地に分かれていた。首都はカミシュリである。
YPGの本部はカミシュリの東、車で2時間の所にある。
IBタイムズがヨーロッパからの志願兵数人にインタビューした。志願兵たちは戦闘で経験したことを語っており、生きた証言となっている。
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クルド人の土地に着くと、英国人志願兵は短期間の訓練の後、キリスト教徒の村を守る任務についた。その数週間後、彼はタラビヤドに送られ、他の2人のヨーロッパ人と共に戦闘後、市内の掃討をした。
英国人志願兵がタラビヤドの戦闘について語る。
「YPG はT55戦車を持っていたが、ISISはドゥシュカ機関銃でよく守った。空爆がISISを追い払った」。
28歳の、別のヨーロッパ人志願兵が付け加えた。「YPG は空爆の援護があるので、自信を持ちすぎている。彼ら自身は大したことをしていない」。
3人の志願兵に与えられた任務は、タラビヤドの戦闘後、市内に潜んでいるISIS残存兵を掃討することだった。
ISISが逃げ出した多くの町と違って、タラビヤドは地雷がしかけられていなかった。地雷をしかける余裕もなく、あわてて逃げたのである。
英国人志願兵が話を続けた。
「市内に入ると、ISISの宣伝と西洋を敵視するスローガンが目に付いた。誰もいない町並みはきれいで、花が植えられていた。家の中に入ると、水道の水がちゃんと出るし、電気がつく。店のショーウインドウにはコカコーラなど西洋の商品が並んでいる。宣伝プラカードに『パンを無料配布します』と書かれていた」。
35歳のドイツ人志願兵が口をはさんだ。「ISISは住民の心をつかむ術を知っている」。
英国人志願兵が話を続けた。
「市内に動物の檻(おり)があった。何のためか、用途はわからない。
最初わずかの住民の姿しか見かけなかっが、ISISが逃げ去ると、多くの住民が現れた。
英国人志願兵
金髪のドイツ人が小麦畑を背景に語った。
「タラビヤドでの勝利後、YPGは戦闘は終わったと考えた。しかしISISは自動車爆弾と仕掛け爆弾で攻撃してきた。YPGの司令官が無能だったので、人々がバタバタと倒れた」。
彼はYPGのお粗末な軍事技術をあからさまに批判する。YPGを批判するのは彼だけではない。外国人志願兵の多くが、そして志願兵募集の責任者も、退役米兵もYPGの戦闘力の低さを指摘する。
ドイツ人志願兵は続けた。
「訓練を受けていない17歳前後の兵士がいる。彼らは遠足気分でやってきて、仲間が殺されるとショックを受ける。その後彼は人間が全部敵に思えてくる」。
国連の報告によれば、タラビヤドでの戦闘により、2万3千人が難民となった。数百人の難民が1週間以内に帰宅できた。
しかしYPGが民族浄化を行っている、という非難が絶えない。
民族浄化の事実についてまだ確定していないが、YPGを間近に見たドイツ人志願兵はそれを確信している。「YPGはアラブの村を破壊する」。
ジャジーラ州の長官は、これに反論する。「YPGがトルクメン人とアラブ人を追い出しているという話は事実無根だ。一部でそうしたことが起きるのは、戦争では避けられない。組織的・計画的なものではない。現在調査が進行中だ」。
長官が嘘を言ってないとしても、兵士を統率できていないようだ。
間近で見聞したドイツ人志願兵が語るだけではない。YPGが他の民族を略奪したり、迫害しているという報告が幾度となく、なされている。これらがすべて虚偽とは考えられない。
ロジャバの首都カミシュリには戦傷者のための病院がある。病棟は簡素であり、粗末に近い。クルドの医療はレベルが低く、西洋人にショックを与える。
一部屋に数人横たわっていた。一人はギリシャ人で、頭を負傷しており、話したがらなかった。
もう一人、24歳のミラド・デリックが、負傷した経緯を語った。タラビヤドの南方で、彼は肩と腕に3発の銃弾を受けた。しかも、思わぬ相手から撃たれた。
ミラド・デリクが語った。
「タラビヤドで勝利した我々(YPG)はラッカに向かって南下した。動揺したISISは、ラッカに住むクルド人を脅迫した。ISISは、ラッカのクルド人が、攻めてくる我々(YPG)と呼応することを恐れたのだろう。
クルド人の家族はISISを恐れ、ラッカから逃げ出した。逃げるクルド人の中に、隠れISISが紛れ込んでいた。
人々はラッカからタラビヤドに向かって逃走していた。その中の女性2人・子供2人・男性2人が、我々に向かって発砲し始めた。彼らは民間人の車に乗っていたので、我々は最初発砲しなかった。しかしすぐに撃ち返し、銃撃戦になった。私と仲間(YPG)の3人が負傷した。3人のうち1人は女性だ」。
最後にデリクは笑みを浮かべながら言った。「私は再び戦場に戻るつもりだ。ロジャバの国を建設するのに貢献したい」。
隣りの部屋には、両足を切断した20歳の男性がいた。彼は自分が重傷を負ったことについて語った。「YPGに参加したとき、こうしたことが起きるのを覚悟していた」。
彼は戦闘服を着たままで、胸にバッジを着けていた。オジャラン指導者の顔が描かれているPKKのバッジである。
彼はタラビヤドの南方で任務に就いていた。ある夜、彼が寝場所に選んだ空家が倒壊し、彼の両足をつぶした。「私の友人が、閉まっているドアを開けようとしたら、爆発が起きた。友人は死んだ」。
両足が不自由であるにもかかわらず、彼は戦線に復帰するつもりである。
YPGの士気は高く、祖国ロジャバのために戦うという信念は揺るがない。しかし、兵士の損傷は増え続け、指揮官は戦闘方法を改善する能力がない。志願兵の多くがYPGに幻滅して、去った。
(原文)Syria: Anti-Isis Westerners fighting for Kurds disillusioned with YPG's 'school trip with guns' tactics
By Sofia Barbarani in Syria July 6,
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タラビヤド入口
<アラブとクルドの対立>
クルド人によるアラブ人の迫害の根底には両者の対立がある。
反アサド闘争が始まると同時に、クルド人とアラブ人の反目が生まれた。2012年11月、両者の戦闘で、数百人が死亡した。反アサド闘争の中から、クルド対アラブの対立が生まれていく様子を玉本英子が伝えている。
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自由シリア軍が、シリア政府軍に攻勢をかけ、町を占拠したことが、そもそものきっかけだった。
ラアス・アルアインは人口3万ほどの町で、クルド人、キリスト教徒が多数を占め、アラブ人は少数だ。ほとんどがアラブ人からなる自由シリア軍による町の支配に市民は大きく反発、地元のクルド人たちが大規模な反対デモをおこなった。自由シリア軍は、そのデモ隊に発砲、市民に暴行を加えたのだった。
これに対し、YPGはクルド人防衛を名目に、自由シリア軍へ攻撃を開始した。およそ3か月にわたる戦闘で、自由シリア軍は敗退、2月末、停戦合意が交わされた。現在、町の南地区をYPGが、北地区を自由シリア軍が支配する状態だが、緊張は続いている。
クルド人の女性は戦闘がはじまった時、自由シリア軍に家を追い出された。戦闘が終わり家へ戻ると、壁や部屋の中は銃弾のあとだらけで、貴重品はすべて盗まれていたという。
(全文) <玉本英子のシリア報告>21
クルド組織YPGと自由シリア軍の激戦地へ 2013年5月23日
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ラアス アルアインはアラビア語である。クルド語ではセレカニエである。場所は一番目の地図にも示されている。
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