ゴート族は現在のポーランドに住んでいたが、1世紀末までに黒海北岸に移住した。370年頃、カスピ海北岸方面からフン族が来襲し、東ゴートは大きな打撃を受けた。これを見た西ゴートはバルカンのローマ領に移動した。東ゴートの大部分はフンの支配を受け入れ、フンの臣下として西進し、ドナウ川北岸に定住した。
東ゴートは、フンに従属していたアラン族と一緒に、フンの従属部族としてしばしば戦争に参加した。アラン族はゴート族の東方に住んでいた遊牧民であり、東ゴートより先にフンによって征服された。
「ヴァラミール(Valamir)はパンノニアの東ゴート王であり、447年に即位した。彼はフンに従って戦った。
彼が即位した年(447年)、アッティラはローマ帝国に侵入し、ギリシャを荒らした。続いてコンスタンチノープルを攻略しようとしたが、高い城壁に阻まれ、兵を失い退却した。ヴァラミールはこの遠征に従軍した。4年後(451年)、アッティラは北ガリアに遠征したが、この時もヴァラミールは東ゴート部隊を率いて従軍した。
453年アッティラが死ぬと、ヴァラミールは武力と政治力によってパンノニアのゴート人の指導者となった。」。
東ローマ皇帝マルキアヌスがゴート人をパンノニアに移住させたので、パンノニアの東ゴート王国の人口は増えていた。パンノニアの東ゴート人は単一のグループではなく、パンノニアに移住した時期も異なっている。また西ゴートの大部分はガリアに去ったが、パンノニアに残留した西ゴート人もいたようである。ヴァラミールは彼らをまとめ、王国を建設した。
ヴァラミールの東ゴート王国はサバ川とドナウ川の間の地域である。
東ゴートは要塞都市シルミウムを手に入れた。シルミウムはパンノニアの防衛だけでなく、東隣のモエシア(セルビア)の防衛もになっている。シルミウムはサバ川の北岸にある。サバ川は東に流れ、ドナウ川に合流する。合流地点からサバ川の上流70kmにシルミウムがある。
東ゴートはパンノニア北端のウィンドボナ(ウィーン)とパンノニア南端のシルミウムを獲得し、パンノニアの支配者となった。東ゴートはフン帝国の没落によってパンノニア支配が可能になった。フン帝国の没落の過程を簡単に説明しておく。
①451年 北ガリアに侵略するが敗北
②453年 アッティラの死
③454年 従属部族の反乱、フン軍敗北
《①北ガリア侵略》
451年フンはライン川を越え、北ガリア(フランス)に侵入した。ローマの将軍フラウィウス・アエティウスは西ゴート、フランク、ブルグンドなどに援軍を要請し、彼らとともにフンとの戦いに挑んだ。翌年パリ東方のカタラウヌム(仏語:シャロン)で両軍が衝突した。フン側にはゲピドや東ゴートはじめ、多くの部族が参加していたが、アッティラ率いるフン勢は敗れた。
《②アッティラの死》
353年アッティラが婚礼の席で急死すると、後継をめぐる争いが起き、フンは求心力を失った。「3人の息子は後継のために争い、帝国を滅ぼした」。北ガリアでの敗北はアッティラの威信を傷つけたが、アッティラは復讐に燃え、イタリアに侵略しており、再起の可能性があった。彼の死がフン帝国滅亡の最大要因となった。
《③従属部族の反乱》
アッチラに対して忠実だったゲピド族はアッチラの息子たちに従おうとはせず、反乱した。東ゴートはじめ多くの従属部族が反乱に参加した。454年パンノニア南東部のネダオ川において、両軍が衝突した。(ネダオ川はサバ川の支流)。アッティラの息子たちは逃亡奴隷を追いかけるように、東ゴート軍に向かっていったが、逆に打ち負かされてしまった。アッティラの長男エラックは戦死し、フン軍は敗北した。
454年のネダオ川の戦いでアッティラの長男は戦死したが、2人の弟は生きていた。456年ー457年ヴァラミールは彼らと戦い、勝利した。この勝利は東ゴートの独立を確かなものにした。
アッティラの死後パンノニアの支配者となった東ゴートに対し、東ローマ皇帝マルキアヌス(在位450ー457年)は毎年100ポンドの金(きん)を支払っていた。これは東ゴートが東ローマ領を侵略しないための保証金である。459年新皇帝レオーン1世は東ゴートへの保証金を打ち切った。しかしレオーンはトラキアの東ゴートへは保証金を払い続け、金の量も多かった。トラキアはドナウ下流の南岸地域であり、コンスタンチノープルに近く、防衛上重要だったので、これは当然だった。トラキアの東ゴートの首長テオドリックの姉妹は東ローマの将軍アスパルと結婚しており、東ローマとの結びつきが深かった。
パンノニアの東ゴートはレオーン1世の年金打ち切りと、トラキア(ドナウ下流南岸地帯)の東ゴート優遇政策に怒った。459 年ー462年の3年間パンノニアの東ゴートはバルカンのローマ領を侵略した。その結果レオーン1世は毎年300ポンドの金(きん)を支払うことを約束した。これは打ち切り前の3倍の年金である。
468年ー469年、ドナウ川の北側に居住するスキリ(Scirii )族が突然東ゴート王ヴァラミールを襲撃し、殺害した。スキリ族はフンの指揮下で勇敢に戦い、フン帝国瓦解後はスエビ族と同盟した。ヴァラミールを殺害したのは、ティサ川流域に住むスキリ族である。ティサ川はカルパチア山脈西部から南下しドナウ川に流れ注いでいる。
東ゴートはドナウ川の南側を支配地としており、スキリ族はドナウの北側に住んでいる。スキリ族はじめ、ドナウの北側の諸部族は、ドナウ南岸への進出をねらっていた。フン帝国消滅後、ドナウ南岸地方の支配をめぐる争いが激化している。ヴァラミール殺害はこうした状況を象徴する事件だった。東ゴート国王暗殺により、東ゴートとスキリ族の関係が緊張したが、スキリ族の背後には、スエビ族など多くの部族がいた。こうしてヴァラミール殺害は諸部族連合と東ゴートの全面対決に発展した。両者はボリア川がドナウ川に合流する地点で戦った。ボリア川はスロバキアから南下し、ハンガリー北部のツォプ(Szob)という町の近くでドナウ川に合流する。
スキリ族側には、スエビのほかにサルマート、ゲピド、ルギが加わっていたが、東ゴートが勝利した。スキリ族によってヴァラミールが殺害されると、ヴァラミールの義理の兄弟であるテオドミールが東ゴート王となっていた。ヴァラミールが生きているときにテオドミールが後継者となることは決まっており、国王の死による混乱はなかった。
東ゴートは諸部族連合に勝利し、パンノニア支配が確立した。
(4世紀の地図についての説明)
ディオクレチアヌス帝は州総督の権力を弱めるため、有力な属州を分割した。この方針は後の皇帝にも受け継がれた。パンノニアは4つに分割された。
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