前回スパイカー基地の新兵が虐殺された事件について書いた。BBCが別の生還者の証言を収録している。この生還者の話を聞くと、生還者は10人以上いるようである。
証言者の名前はサーヘル・アブドル・カリームさんである。
事件の日、スパイカー基地には3千人いたというが、航空兵の数としては、多すぎる。カリームさんの証言で、周辺の地上兵が、事件の前日スパイカー基地に集められたことがわかった。スパイカー基地には一晩泊まっただけで、今度はバグダッドへ移動することになった。バグダッドに向けて出発して間もなく、突然15日間の休暇が与えられた。軍の輸送車を降り、民間人の服に着替え、別の大型トラックの荷台に乗つた。帰省する人間として、サマラに向かう。サマラはティクリートとバグダッドの中間に位置する。出発して間もなく、ISISの車が現れ、トラックごと捕虜となった。
バグダッドの北方にあるサマラとティクリート Press TV
(地図の説明) 南端にバグダッドがあり、その北にサマラがある。サマラの北にティクリートがある。
相次ぐ軍の命令には、不自然なものがある。
米国が再建したイラク軍には、不可解な点が多々あり、そのことを理解することが、ISIS問題解決の近道かもしれない。
BBCのドキュメンタリーの中で、カリームさんはアラビア語を話しているが、英文字幕があり、以下に訳した。
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Bbc Documentary 2015 - ISIS - ON THE FRONTLINE - HD
貼り付け元 <https://www.youtube.com/watch?v=P_CLPBzu-Hs>
我々の仲間が殺されたのは、上官たちの裏切りによるものだ。上官と部族はなぜ、このような裏切り行為をしたのだろう。なぜ我々をISISの手に引き渡したのだ。私にはわからない。
私が裏切られたと考える理由は、将軍が我々を基地から追い出したからだ。将軍は我々に移動を命じた。
基地には重砲とその他の武器があった。攻撃されても、我々は反撃できた。どのような攻撃を受けても、反撃できるだけの武器がそろっていたからだ。百人、2百人、あるいは3百人が死んだとしても、戦ったほうがよかった。
それなのに、将軍は我々をISISに引き渡してしまった。「家族のもとに帰れ」と言った。この命令のために、数千人が殺されてしまった。
<カリームさんの部隊はスパイカー基地に移動>
前日の午後1時、全員の携帯電話がとりあげられた。一人残らず。理由はわからない。そして、スパイカー基地に移動することになった。携帯電話は間もなく戻ってきた。我々はスパイカー基地に着いて、その夜を過ごした。
夜が明け、朝の6時に、「荷物をまとめて、バグダッドに行け」と言われた。我々は、武器と荷物をまとめ、バグダッドへ行く準備をした。荷物は自動車に積んだ。自動車の数台はハマーだった。(ハマーは悪路対応車。タイヤが大きくて車高が高い)
ハマー ウイキペディア
我々は車に乗った。バグダッドへ行くつもりだった。出発すると、車列はあっちへ行ったりこっちへ行ったりしたあげく、停止した。将軍は車列を停止させた後、我々を車から降ろした。車から降りて集合すると、将軍は我々に命じた。「バグダッドへ行く計画は中止になった。軍服を脱いで、民間人の服に着替えよ。武器は置いていくように。諸君に15日間の帰宅休暇を与える。家族のもとに帰りなさい。15日後、バグダッドのタージュ基地に集合しなさい。そこで新しい部隊に配属される予定だが、まだ決定していない。もとの部隊に戻ることになるかもしれない」
我々は、道路は安全か、と将軍に質問した。「部隊と地元の部族が警備しているので、道路は安全だ」という返事だった。部隊には送迎用の民間車があるが、全員同時に使用できる台数はない。将軍は「君たちをサマラまで送って行くように、政府の大型トラックを手配した」と言った。
我々は民間の服に着替え、武器を渡し,幹線道路に向かって歩き出した。幹線道路は、車と人の往来が多かった。その道路を歩いて大学に向かった。私たちをサマラまで送ってくれるトラックは大学の車庫にあるからである。我々は大人数で幹線道路を30~40分歩いた。目的地の大学に着くと、トラックが並んでいた。大部分が政府のトラックだ。そばに立っていた数人の将校が我々に告げた。「ここにならんでいる車が、君たちをサマラやバグダッドに送って行く」。それらのトラックに我々は分乗した。私は順調に事が運んでいると感じた。
<ISISの登場>
しかしいつの間にか、黒旗を掲げたISISの車が私たちの後ろを走っているではないか。我々はがくぜんとした。彼らは全員武装している。
4人のISISがれわれのトラックに飛び乗ってきた。その中の一人が「メデイアの人間を連れてこい」と言った。カメラを持った人間が来て、我々を撮影した。
撮影が終わると、「車から降りて、一列に並べ」と言われた。車から降りると、ISIS取り囲まれ、なぐられた。なぐられた後、我々は監禁された。
(写真)NewYorkTimes
ドアが開く音がして、誰か入ってきた。ティクリート出身の男だった。彼は下級看守に言つた。「全員シーア派かどうか確認したか」。下級看守は「自信がありません」と答えた。すると上級看守の男は我々に向かって、「いいか、よく聞け。誰がスンニで、誰がシーアか調べる。スンニ派は手を上げろ。シーア派なのにスンニ派だと偽った者は死刑だ」と言った。何人かが手を挙げた。しかし最後通牒を聞いて、我々は挙げた手を下した。スンニ派は3~4人しかいなかった。
私たちは監禁されていたが、ある時私の友人の一人が連れ出された。続いて私の番だ。私を含めた4人が、監禁されている広間から連れ出された。同時に別の広間からも数人が連れ出された。我々は、頭を下げたまま歩けと言われた。
(写真)NewYorkTimes
大きな広間に着くと、そこにいたISISが「どうしてここに連れて来たんだ。連れ戻せ。ここは死体でいっぱいだ」と言った。我々の上級看守は「今さらそう言われても無理だ」と反論した。「じゃあ、とりあえず塹壕の横へ連れて行け。ここの死体を急いでかたづけるから」。大きな広間の床には、至る所に死体が転がっていた。死体の多くには拷問のあとがあった。多く兵士が頭を強く打たれて死んだ。
私と一緒だった者も、拷問中に突然死んだ。彼は頭を何度も打たれ、私の足元に崩れるようにして死んだ。
塹壕に着くと、私たちが乗せられたのと同じような大型トラックがやって来た。荷台は若い兵士でいっぱいだった。トラックが止まると、兵士たちは周辺の様子を見て、恐ろしくなった。あちこちに死体が転がっており、また生きている私たちが血だらけなのを見て、彼らはパニック状態になり、あらゆる方角に逃げ出した。ISISはあわててつかまえようとした。逃げるイラク軍の若者を追って、ISISもあらゆる方角に走り出した。我々の看守はその混乱を見て、気を取られた。私はその時ふと、トラクターが墓をっ掘っていたことを思い出した。生き埋めにしていたのか、死体を埋めていたのか私にはわからない。頭を上げることを許されず、横眼で見ていただけなので、はっきりとはわからない。
我々の看守が逃げた兵士を捕まえるために去って行ったので、我々は死体を埋める溝を飛び越えて、逃げ出した。両手が縛られていなかったので、全力で溝を飛び越え、走ることができた。看守は我々が逃げたのに気づき、発砲し始めた。仲間2人が撃たれて倒れた。ヒッラ市出身のアミールと私は、必死で逃げた。
私は地元のスンニ派の住民に助けを求めた。彼は言つた「スンニ派のふりをしろ。なんとか助けてやる」。そのスンニ派住民のおかげで、無事ティクリートを抜け出すことができた。
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前回と今回の2人の証言者が、どちらもスンニ派の住民に助けられて、脱出している。スンニ派の中にも、シーア派との殺し合いを望まない人間が、かなりいる。今のうちに内戦をやめれば、解決に向かう。スンニ派の死者数が増え、シーア派を憎むスンニ派が圧倒的多数になれば、解決の道はない。
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