オスマン・トルコは1453年に東ローマ帝国を滅ぼし、新たに大帝国を築いた。西ヨーロッパがギリシャ・ローマ文化の継承者であることは知られているが、オスマントルコ帝国がギリシャ・ローマ文化の継承者であることは知られていない。東ローマ滅亡後も経済と文化はある程度温存された。オスマントルコ政府を上級の権力として認めれば、帝国内の臣民は従来の生活を続けることを許されたからである。今回は東ローマがオスマン・トルコに置き換わったことを確認したい。
〈1100年頃のヨーロッパ〉
フランクの王カールは西暦800年にローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠した。476年西ローマが滅亡して以来、300年以上経過しており、継続性はないが、ローマ皇帝の記憶は消えていない。ゲルマンの王よりローマ皇帝のほうが権威があった。西ローマ滅亡後も東ローマは存続しており、この間東ローマ皇帝が単独の皇帝となっていた。したがって東方のローマ皇帝はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。
カールの死後フランク王国は東・中央・西の3つに分裂し、その後中央の国が消滅し、西フランクと東フランクが残った。西フランクの王は皇帝という権威に必要を感じず、皇帝位は忘れ去られた。東フランク場合、皇帝という権威が必要だった。東フランクは分裂しており、東フランクの王は互いに争っている諸侯の一人に過ぎなかった。西フランク王も諸侯と争っていたが、国王には優位性があった。東フランクの場合、各地の有力諸侯が王位を争っており、それぞれの地方は対等であり、国家の中心となる領域が存在しなかった。オットー一世は分裂状態に終止符を打つ努力をし、自分の兄弟と近親者を各地の諸侯に任命した。国家の唯一の主権者であることを宣言する目的からオットーはローマ皇帝として戴冠した。東フランク各地の司教はローマ教皇を中心にまとまった組織であり、オットーはかれらの協力を得て国家の統一を実現しようとした。オットーの教会重視の政策により、東フランクは神聖ローマ帝国と呼ばれるようになった。また東フランクの王はローマ王と呼ばれるようになった。現代人はドイツの王をイタリア王を呼ぶことに違和感を感じるが、この時代ドイツという呼称はない。この時代の文書はラテン語である。聖書もラテン語である。ドイツ語が文章語として定着すると、東フランクはドイツと呼ばれるようになった。イタリアの王はイタリア王である。
神聖ローマ皇帝はローマ王とイタリア王を兼ねることが多かった。イタリア王を兼ねた神聖ローマ皇帝はイタリア全部を支配していたわけではなく、その一部を支配していただけである。19世紀にイタリアが統一されるまで、イタリア全体を支配した者はいなかった。神聖ローマ帝国はナポレオンの時代まで続く。
上の地図にあるように、11世紀初頭ポーランド、ハンガリー、ブルガリアは独立国である。ハンガリーの東の小国(Ardil)はハンガリー人とルーマニア人が混在しており、支配者がどちらだったか、わからない。ハンガリーの南の小国(Ahtum)は主にハンガリー人の居住地であるが、アヴァール人とブルガリア人も住んでいる。支配者についてわかっていない。両国は後にハンガリー領となる。
〈1300年ごろのヨーロッパ〉
地図によると、ポーランドが分裂し、中心部はボヘミアに併合されている。ハンガリーはクロアチアを併合し、ハンブルガリアの領土も奪っている。(12世紀の地図参照)
14世紀のハンガリーは野心的だった。
セルビア王国が新たに誕生している。
ハンガリーの東の小国モルダビアはルーマニア人の国である。
東ローマは十字軍による打撃が大きく、滅亡は免れたものの、領土は大幅に縮小した。
〈ヨーロッパと中東〉
カエサルの時代からトラヤヌス帝の時代まで、ローマ帝国の東半分は文明地帯だった。中東で人類最初の文明が誕生し、紀元前2500以来、中東は文明の中心だった。古代文明の末期、紀元前500年頃にギリシャが興隆し、新しい文明がが生まれた。これ以後世界史は新たな時代に入るが、中東が衰退したわけではない。アレクサンダー大王の後継者たちが中東を支配した時代、ギリシャと中東の間の交流が盛んになり、中東はギリシャ化された。新しい都市も建設され、エジプト・シリアは繁栄した。その後ローマが中東にまで進出するが、ローマは後進民族であり、エジプト・シリアは文明地帯だった。
15世紀のイタリアのルネサンス以来西ヨーロッパが先進的な文明地帯となったようにように考えられているが、これは誤解である。確かに15世紀のイタリア文化は西洋文明の出発点になったが、15世紀のイスラム世界は西ヨーロッパより繁栄していた。ルネッサンス期のイタリアの繁栄は西ヨーロッパの繁栄の予兆に過ぎなかった。文化・経済の両面で、中東と西ヨーロッパの地位が逆転するのは1800年代である。この時期に間違いなく劇的な逆転がおきた。その原因は精神的なものでも、文化的なものでもなく、西ヨーロッパにおいて生産技術が飛躍的に発展したからである。西洋で産業革命が起きたのは1700年代であるが、それが急激な経済成長をもたらすようになるのは1800年代である。
この間オスマン帝国は1700年頃を境に興隆から衰退に転じるが、1700代の衰退ははっきり感じられるものではなく、非常に緩やかに衰退に向かったのである。オスマン帝国はバルカンから東欧に進出し、西欧と国境を接していた。このことはオーストリアとポーランドにとって深刻な脅威となっていた。ハンガリーの状況は複雑だった。最初はオスマン帝国が脅威だったが、後にオーストリアに併合されそうになると、オスマン・トルコに頼って独立を維持しようとした。
1453年コンスタンチノープルが陥落し、1000年続いた東ローマは滅亡した。16世紀初め、ハンガリーに代わりポーランドが繁栄する。ポーランドとリトアニアとの連合は合意によるもので、両国はともに栄えた。ルーマニア人の国モルダビアはポーランドの支配下に入り、地図から消えている。同じくルーマニア人の国ワラキアが誕生している。ハンガリーの支配から脱したのである。モルダビアの領土は黒海沿岸部から北西に延びており、ワラキアのは領土は黒海沿岸部から真西に延びている。
ブルガリアはオスマン帝国に飲み込まれてしまった。
オーストリアの中心都市ウイーンは1529年と1683年にオスマン軍によって包囲された。ウイーンは2度の包囲において危機的な状況に陥ったが、長期間の包囲戦の末、オスマン軍を撃退けた。第2回包囲後オスマンの脅威は消滅し、オスマン帝国の存在は忘れ去られた。西欧は内部での覇権争いに終始した。
〈オスマントルコの衰退とバルカン問題〉
1800年代になると、大国の地位を確立したイギリスとフランスは東欧と地中海に関心を持つようになった。これらの地域を支配していたオスマン・トルコは衰退しており、英・仏の圧力をはねのけることができなかった。また黒海の向こうのロシアも強国に成長しており、バルカンから南下しようとしていた。トルコ帝国はひん死の病人と呼ばれ、朽ちた大木と見られていた。広大なトルコの領土は英・仏・露の争奪の対象となった。
こうした中で、スラブ民族の土地であるバルカンを影響下に置こうとするロシアと自国内のスラブ人の独立傾向を抑え込もうとするオーストリアが衝突し、第一次大戦を引き起こした。独立後のセルビアは民族主義に燃えて戦意が高揚しており、オーストリア領内のクロアチア人とセルビア人に影響を与えていた。オーストリアはスラブ人地域を失う危険が迫っていた。オーストリアは疫病神のセルビアを滅ぼすことを決意した。これに対しロシアはセルビアを守るつもりだった。ロシアがセルビアを見捨てるなら、スラブ人の信頼を裏切ることになり、ロシアのバルカン政策は破滅する。オーストリアは単独でロシアを相手にするだけの軍事力はなかったが、ドイツが支援を約束していたので、ロシアとの戦争になることを承知の上でセルビアに最後通牒を出した。日露戦争で敗北したロシアは弱体化したが、徐々に回復しており、ロシア軍の再建・強化は時間の問題だった。ロシア軍は大きな戦闘で敗北をしても粘り強く戦い続け、徐々に逆転するという戦い方をする。日露戦争で早々と講和したしたのは、講和の条件に賠償金は含まれず、三国干渉で得た領土を引き渡すだけだったからである。ただし南満州鉄道を建設したのはロシアであり、これを日本に引き渡すのは痛手だったが、極東における損失は許容範囲内だった。
極東と違い、ロシアにとって東欧は重要な緩衝地帯であり、言わば前庭である。ロシアは東欧において致命的な譲歩をするぐらいなら、最後まで戦う。ポーランド国境からモスクワまで進軍するのは容易である。ロシアは東欧支配を重視しており、一方でドイツは東欧へ進出しようとしている。ドイツとロシアは互いに潜在敵な敵である。ロシア軍が再建されるなら、ドイツにとって脅威となる。ドイツ参謀本部はロシア軍が弱いうちに、これをたたくことに決めていた。好戦的な発言で有名だったドイツ国王ウイルヘルム2世は瀬戸際作戦をしていただけであり、いざ戦争となると慎重だった。ロシア皇帝とウィルヘルム2世は従兄弟どうしであり、ウィルヘルム2世はロシアと戦争をするつもりがなかった。彼はその考えを参謀長モルトケに伝えた。するとモルトケは「戦争は決定されており、すでに動いています」と述べ、国王の意向を無視した。
第一次大戦の原因となったことで、バルカン問題は世界から注目された。東欧に興味がない日本人もこのことは知っている。19世紀末バルカン半島は火薬庫と呼ばれた。バルカンの支配者であったオスマン帝国が弱体化したため、諸民族の独立運動が盛んになり、これを利用して自国の勢力圏を設定しようとする列強の争いが激化したのである。
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