京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

女郎花、フシグロセンノウ、オニユリ、ナツズイセン、ヤマユリ、ウバユリ

2019-07-27 18:02:59 | 2019 花


女郎花
まだ7月ですが秋の七草の一つがまた開花しました。





フシグロセンノウ
日本特産の多年草で、本州の太平洋側の温暖な地帯に分布し、林床や樹陰に自生します。










オニユリ



















ナツズイセン咲きはじめです。
夏水仙はヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草、和名は葉がスイセンに似ていて、花が夏に咲くことから。
また、花期に葉がないことから、俗にハダカユリ(裸百合)とも呼ばれています。





コオニユリ





ヤマユリ









ウバユリ





オトギリソウ





ヒオウギ






ハマボウ









ミソハギ





キンミズヒキ





カリガネソウ





蜘蛛の糸











国指定史跡 岩倉具視幽棲旧宅

2019-07-27 05:47:44 | 京都の町 町屋・建造物


昨日国指定史跡 岩倉具視幽棲旧宅に行ってきました。私のブログ初登場です。
岩倉実相院近くにあることは知っていましたが、一般拝観しているとは知りませんでした。
たまたま乗車した市バスの吊り広告に「夏にめぐる明治のプライベート空間」の観光案内(京都市)があり、無鄰庵、旧三井家下鴨別邸、史跡・岩倉具視幽棲旧宅をめぐる企画が紹介されていました。

旧五百円札でもよく知られる岩倉具視は、明治維新における王政復古に力を注いだ幕末、明治期の代表的な政治家です。
文政8年(1825)に参議正三位堀河康親の次男として生まれたのち、天保9年(1838)に公卿岩倉具慶の養子になります。
安政元年(1854)孝明天皇の侍従となり、次第に朝廷内において台頭し、発言力を増してきました。
そのような中で公武合体をすすめるため、孝明天皇の妹、和宮の将軍家への降嫁を推進したことにより、尊皇攘夷派から佐幕派の巨頭と見られ、文久2年(1862)に攘夷運動の高まりの中で辞官落飾し、洛北の岩倉村に慶応3年(1867)までの間幽棲しました。

岩倉具視は元治元年(1864)に大工藤吉の居宅(現在の附属屋)を購入し、主屋と繋屋を増築して住居としたのが、この旧宅です。
周囲を塀で囲まれ、居宅は茅葺の主屋(約60㎡)と瓦葺の附属屋(約67㎡)、繋屋(約9㎡)から成っています。
他に敷地の南土塀に表門を構え、門を入って主屋南庭に通じる中門、池庭、離れの便所によって構成されています。
平成20年(2008)から4箇年をかけて京都市が国庫補助を得て、本格的な修理を行いました。
また、敷地の東側には、展示・収蔵施設である対岳文庫(国登録文化財)と管理事務所があります。
平成25年にこの史跡を長年にわたって守り続けてきた(財)岩倉旧蹟保存会から京都市が寄付を受け、保存していくことになりました。
国史跡指定年月日: 昭和7年(1932)3月25日 指定面積: 1,553㎡

通用門 見学入口





鄰雲軒
建物の名前は昭和7年(1932)に東伏見宮周子(岩倉具視の孫)














玄関














主屋は2部屋です。各六畳















各部屋から見える庭園
大正ガラスを用いた障子戸
























附属屋に繋がっています。





中庭














中門





表門
坂本龍馬ら幕末の志士もこの門から入ったのでしょう。




附属屋
こちらは日常の生活の場です。









部屋は四畳半が4部屋です。
こちらには上がれません。
























水屋





消化用ポンプ(幕府支給)





外に井戸





遺髪碑
岩倉具視の遺髪を埋葬した塚です。
碑文には「命を狙われて岩倉村に隠れ住んだけれども、志を失わずに活動し、やがて王政復古の大号令に結実しました。明治維新後には具視は東京に移り住んだけれども、京都に来た際には村の人々と宴席をもって旧交を温めました。具視は、岩倉が創業の地であり、危機に瀕した際に助けてくれた村の人々にことを終生忘れませんでした。長男具綱と村の人々の計画で、遺髪を埋葬して後々まで具視の遺徳が偲ばれるようにと碑が建設されました。」といった内容が記されています。





手植え松





対学文庫
岩倉具視の遺品類などを収蔵するため、昭和3年(1928)に建設されました。
昭和初期を代表する建築家の武田吾一の設計です。武田吾一は京都市庁本館や京都府立図書館なども設計しています。
「対学」とは、具視の雅号で岳は比叡山を指し、その向いに住んでいるという意味合いです。





登録有形文化財に指定されています。





扉の上に「対学文庫」の額があります。
東伏見宮周子(岩倉具視の孫)の揮毫です。





中は撮影禁止です。
岩倉具視とその家族たちの資料などが展示されています。


表門と土塀
坂本龍馬や中岡慎太郎たちも訪れた門です。















岩倉具視は王政復古後、新政府の中心人物として、鹿児島の西郷隆盛、大久保利通、山口の木戸孝允らと活動します。
明治10年代には西郷、大久保、木戸らが相次いで亡くなる中、政府の中心となった伊藤博文とともに、明治16年(1883)に亡くなるまで政府の基盤を安定させることに尽力しました。

旧五百円札
探したらわが家にもありました。





見学料金 一般300円  休館日 水曜日