道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

「西郷どん」

2018年01月08日 | 随想

今年のNHK大河ドラマ「西郷どん」の初回を見た。国民的期待の強いドラマだが、考証に凝って俳優が皆薩摩弁を喋るので、何を言っているのかさっぱりわからない。それがお茶の間の率直な評判だろう。

鹿児島弁は難しい。幕藩時代の鹿児島藩は、公儀隠密の侵入を防ぐ目的で、故意に家臣、領民の話し言葉を難解にしたとまことしやかに伝えられている。

この説は、外様大名の雄藩、薩摩藩に相応しいが、事実かどうかというと首をかしげざるをえない。

何千年もの間、薩摩・大隅・日向の地域の住民の意思疎通に使われてきた言語を、江戸幕府成立後の短い期間に防諜の目的で改造することなど、できるはずがない。家臣とその家族、領民全世代への集中的な言語教育が必要になる大仕事だ。観光客への説明にはよいが、荒唐無稽な俗説と言わざるをえない。

もともと鹿児島は、列島の他のクニとは著しく異なった言語の地域で、それはやはりこの地に住む人々のルーツが、遠く離れた南の地から島嶼伝いに薩摩半島・大隅半島に渡来したことを物語っている。その時代の列島への人の移住の主なルートは、1.朝鮮半島から、2.大陸から、3.南西島嶼から、のどれかだが、3.は文化圏が異なる。それが特異な方言の理由であると考える方が自然で無理がない。

ヤマト王権に熊襲と呼ばれ征討を受けたのも、言語、風俗、習慣の差異の大きさが原因で、それは蝦夷と呼ばれた北辺の住人達の辿った歴史と変わらない。ヤマトは、熊襲と蝦夷を自分たちとは異質の人間集団であると認識し、同化政策の対象にした。しかし、熊襲の地の住民の剽悍さは、ヤマトに知れ渡っていた。臣従して隼人と呼ばれた人々は、その後も戦闘の精鋭と評価され続けた。

鎌倉時代の初期に、中央からこの地の守護に補任され、後に荘名を採って島津と名乗るようになった支配者は、在住の人々を列島一般の文化に同化させると共に、その不羈勇猛の気質を活用した。南北朝の時代から江戸期を通じて、常に島津家の武勇は隣国や他国に怖れられていた。幕末の動乱の時も、薩摩の武勇に対する他藩の評価と信頼は絶大なものがあり、経済力と共に倒幕への力強い支えとなった。ただし、尚武の風はあくまで土着の住民の血脈に由来するものであって、教育や訓練だけでは定着しない。

大河ドラマの聴きづらい薩摩弁も、薩摩の歴史の顕れと看れば我慢もできる。年末を迎える頃には、視聴者の大多数が耳慣れして、現地観光の際には重宝するのではないか。


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