5時に起きて外に出てみると、心なしか28度設定の室温より涼しく感じられた。
「あっ!猛暑も峠を越したな」と感じた瞬間だった。秋風が立ったのである。
さしもの酷熱も、太陽の入射角のごく僅かな変化で、今後一日ごとに猛威を失うと予想すると、痛快な気分になる。
今日(30日)は温泉マニアの娘夫婦に誘われ、甲斐と駿河の国境にある、山梨県南部町の「佐野川温泉」を訪ねる。富士川支流佐野川の畔に佇む冷泉である。
源泉かけ流しに拘ると、入湯客の多い、施設の大きな、浴槽の大きい温泉施設はほとんどが失格してしまう。
源泉の湯量がどんなに豊富でも、引き湯先の数が多ければ、一施設あたりのかけ流しに必要な湯量に達せず、循環装置なしで湯量を確保することはできない。
戦後一貫して高層化、大規模化して来た日本の温泉ホテル・旅館は、平成の温泉掘削ブームの時代になると、掘削深度を深めて温泉水の汲み上げ量を上げ、コンピュータで制御された高機能の循環給湯システムを導入し、入湯客の最大化を進めて来た。平成になると,雨後の筍のように日帰りの大規模温泉施設が全国にできた。しかし、大規模な温泉施設ほど、源泉かけ流しとは相容れない関係にある。
源泉かけ流し温泉は、旧時代の温泉宿の規模でなければ、本来運営できないものである。源泉かけ流し温泉は、本来、大規模化は不可能だったのである。
松尾芭蕉が浸かった加賀の山中温泉や柴田錬三郎の創作した机龍之介が傷を癒した飛騨の白骨温泉なども、当初は源泉かけ流しだった。
藩候が利用した秋田の乳頭温泉なども、天然かけ流し温泉の典型である。
入湯する人の数が源泉の湧出量に対して少なかった時代に源泉かけ流し温泉は存在できた。
温泉も天然資源のひとつ、給湯には限界がある。本来、多勢の人員を一遍に満足させることは不可能なのが、天然温泉というものである。
八甲田温泉などは、特別に豊富な源泉の湧出があって、あの多人数の入湯が現実になった稀な例だろう。
今日の温泉は、泉質・泉温より、源泉の湧出量(1分間あたり100リットル以上)とそれに見合う浴槽の大きさで決まる源泉かけ流し温泉に関心が高まっている。飲用の可否も、その温泉の効能の大きな要素である。
循環浄化装置の厳正な清掃・保守・点検など、衛生上の管理と保守の労力が経営の負担になり始めた大規模入浴施設には、かつての盛況は見られない。今後は大規模な温泉ホテルや温泉旅館はインバウンドの観光客の宿泊施設としての需要に、活路を求めることになるだろう。
中部横断自動車道が開通したのは2021年8月、コロナ禍の渦中のことだった。
老生は甲斐路が近くなるこの高速道路の開通を待ち侘びていた。今ようやく、その道を走る車に乗った。
思えば甲斐の国は、遠江の住人には、永い間近くて遠い僻鄒の異境だった。 それでいて甲府は、江戸・東京に近い大都会である。僻鄒は我が方である。
南アルプスが障壁として立ち塞がり、鉄道も自動車も駿河・静岡経由でないと入れない。アルピニズムとは一線を画す南アルプスへのアクセスには恵まれていなかった。
曲がりくねった山峡を行く身延線は、特急の意味が薄れるほど速度が遅く、便も少なかったのである。
富士川に沿う国道52号は、沿道が古くから栄えた多くの市街地を通過するため信号が多く、マイカーで移動する度、車の流れの悪さにウンザリしたものだった。
老生は第二東名からJCTでそのまま身延路に入る初体験に感動した。かつては、夏の暑い盛りに、静岡地内から52号線に入るのが苦手だった。
温泉を堪能した後、富士川の流れに沿って国道52号を駆け下り、河口の田子ノ浦港で昼食を摂った。
其処から婿殿の提案で、箱根を越え小田原に足を延ばすことになった。
家内がかねがね重用していた民間薬を購入するためである。
この薬、かつてドイツ旅行中に猛烈な食あたりに見舞われた彼女を救って以来、当人には絶大の信用がある。老生も家族も、体調に異変があると先ずはそれを飲まされる。
店頭対面販売でないと売ってくれないため、先月常備分を切らした家内は落ち着かず、新幹線で買い付けに行く覚悟でいた。昔を想起すると、私の親たちも、この小さな銀色の丸薬を大切にしていた。
小田原行きの結果、箱根を往来することになり、芦ノ湖の湖面や仙石原の青いカヤトの原の景観も、余録として眺めることができた。
婿殿は400kmもの運転。彼のお陰で、熱中症を惧れ外出を避けがちな我々老夫婦も、佳い夏休みの行楽をさせてもらった。
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