当ブログ「道々の枝折」は、見たこと、聞いたこと、為たこと、考えたことを記事投稿させていただき、私見の記憶の援けとしている。思いついたことは、記録しておかないと、直ぐに忘れてしまう。
私は根拠もないのに、記憶力には妙な自信を持っていて、若い時から備忘目的の手帳の類は一切持たなかった。
中学生の時など、宿題の提出期限は几帳面な友だちに訊けば可いとするズボラな不心得者だった。
社会人になって、卓れた実務家だった上司が、A5版バインダー式の小型手帳を利用し、綿密に仕事上の記録をとっていることを知って驚嘆した。その必要性は痛感したが、横着者の私には真似できなかった。
第一タテヨコ3ミリの文字は私には書けなかった。その人はメモ帳の過去ページを分類整理し、ラベルを貼って保存していた。必要に応じて自在に検索し、それを活用する。会議では、彼の記憶の正確さに誰も歯が立たなかった。優れた管理者だったと、今も敬服している。
私は上司と正反対。「忘れるようなことは、大した事柄ではない。しなくてもよいこと」などと嘯いていた。
人は細大漏らさず憶えておくより、重大な事柄から順に憶えているものなので、瑣末なことまで正確に憶えなくてよいという粗雑な変え方をしていた。
ブログを始めて、人の脳は、見たり聞いたり為たことは、脳内の記憶の収納庫に仕舞われるが、考えたことには、収納先が備わっていないことに気がついた。考えたことは、シャボン玉のように何処にも収まらず漂い、片端から消えてしまう。考えたことは、書き留めておかないと消えてしまうものだった。
発想とか思考は現実を伴わない。人は現実を伴わないものは、記憶できないらしい。古い時代に和漢洋の古典が、あれだけ数多く著作されたのは、観念の世界は著述するしか記憶に留めることができなかったからではないか?後世に遺すということより、思考したものは書き留めるしかなかったのだろう。
人間は、発想や思考を脳にとどめておくことが苦手にできているようだ。
ここに、記憶と思考という脳の2大機能の特質が表れている。
学んだことは他の人が考えたことである。自分の思考の結果ではない。学んだことは記憶の在処(ありか)に自動的に収められ、必要に応じて蘇らせることができる。
ところが自分が考えたことは、そうはいかない。考えたことは自分が思考した結果である。既に脳は働いたのである。考えたことを更に自動的に記憶するまでの機能を脳は備えていない。外付けの記憶装置、文書に記録しておかないと雲散霧消してしまう所以であろう。
発想とか考えたことのためのメモリは,人の脳には備わっていないようだ。
考えたことは、書かなければ保存できないのである。考える傍から忘れてゆく。逆に言うと、書くこととは考えることである。書かなければ、考えは要領よくまとめられない。
書物(古典)は、叡智ある人々の考えをまとめる為の、思考を発展させ掘り下げる為の、つまり脳を働かせるためのツールだったのである。
記憶したことは憶い出すことができるが、思考したことは直ちに記録しておかないと、忘れてしまってお仕舞いである。思考の回廊の入口がどこにあったのかすら、見つからなくなるものである。
自分の過去の時々に泛かんだ考えというものは、刻々上書きされ消去されている。それではあまりに虚しいから、書き留めたくなるのである。自分の頭と心が働いて考え出したものは、筆写しておかないと必ず消える。人の考えに触れたときは、それは必ず記憶領域の何処かに収納されるのに、自分が生み出した考えが消えてしまうということは、学習というものの性質と効果を考えると、納得がいく。
「下手な考え休むに似たり」と謂うが、人には、考えを定着させない、ワイプアウトの仕組みが備わっているようだ。
考えたことはブログにアップするに如くはない。ブログの記録保存の簡便さというものは、人類にとって、画期的なことであると思う。墨を擦って書かものをしていた時代を考えると、書くことの簡便性は飛躍した。
ブログというものができて、発想も思考も、草花や景色をカメラで撮るのと変わらないものになった。思いついたことをブログに書き込んでおけば、再び自分で慥かめることができる。人間の脳に備わっていないことが、かくも容易にできるようになったのは、洵に有難いことである。
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