道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

考える力

2023年12月22日 | 人文考察
考える力とは思惟力である。学ぶ力は学習力。学習は知的には未だ何も生産してない状態、準備段階である。学ぶことは誰でもできるが、考えてそれを思想に纏め、他人に理解してもらえるよう伝えることは難しい。

日本人はある種の強迫観念に囚われているのではないかと思うほどに、学ぶこと勉強することに熱心な民族だと思う。
幕末に近代西欧文明に出逢って、専らそれをキャッチアップする必要に迫られたことが、大きな理由だろう。勤勉さとそれによって齎された成果は世界を驚愕させ、現在の国際社会での高い評価を、揺るぎないものにしている(と思いたい)。

日本の国力(総合力)の衰退を危惧する向きも多いようだが、黒船来航以降の数々の国難を乗り越えて来たことを顧みると、懸念には及ばないだろう。ただ、本当に世界のリーダーと目される国になりたいなら、学ぶより考えることに軸足を移すよう、根本から改めなければならないと思う。今は、その段階にあるのではないだろうか?

私たち日本人は、歴史的学ぶことを過大に評価して来たように思う。我が国ばかりか隣国も、異様な程に勉強熱心である。 東北アジアの3ヶ国は、奇しくも揃って学習に重心がある。これはたぶん、古代中国の神仙思想とその時代に続く科挙制度の悪しき伝統に由来するかも知れない。

古来中国には道教という民間信仰があって、その教えの中に、神仙思想という極めて不合理で不自然な考え方があった。
人は誰でも、熱心に学び厳しい修行を積めば、究極には「神仙」になり、永遠の生命を得ることができるという、勤勉を誘導する考えである。
中国人(漢民族)は、歴史的に数々の優れた業績を打ち立てた一方で、陋固として合理性の無い発想を許容し推し続けて来た民族である。

明治以来、我が国が範を仰いで来た西欧文明国は、どちらかと言えば歴史的・伝統的に、学ぶことより考えること高く評価して来たように思う。ギリシャ文明以来の、思惟に重きを置き考察を尊ぶ立場は明白である。
学ばないということではない。考える為には学ぶが、学ぶことだけを目的(高点をとる・試験に受かる)にする学習はしないということである。

そもそも学ぶこと考えることとは不可分の関係にあるのではないかと思う。どちらが大切かというなら、明らかに「考えること」だろう。学ぶことは考える為の基礎に過ぎない。その意味で学びは大切である。最終的には、考えて実証を目指す態度が正しいことは言うまでもない。
考えることは知的生産であるが、学ぶことは未だ生産ではない。その前段階の知的準備段階に過ぎない。

この古代中国の民間に起こった神仙思想が、漢字や道教と共に我が国に伝播し、当時の為政者や知識人たちはこれを真に受けた。以来日本には、学ぶこと修行することが、人の最も枢要な道であるという考え方が定着する。
統治階級がもっぱら当時の先進地、中国の知識を有り難がって摂り入れていた時代のことである。統治階級のみならず、人民にも学習修行の励行は拡がっていった。それは勉強練習に明け暮れる現代の中・高学校生活が如実に示している。

学習と修行を重要視すれば、その反作用として、考えることすなわち思惟は等閑視されることになる。
古代中国の統治者は、考え深い人民は不用であり、時に有害ですらあると見なしていたと思われるフシがある。この見方に我が国の統治者たちは感化され、この国の民衆もますます思惟から遠ざけられた。かくして、学習偏重思惟軽視の認識が社会全体に定着してゆく。

学ぶことは書物を読むこと抜きには不可能である。知的生産物は文章で伝逹される。勉強熱心な日本人は、格別に読書を重んずる。日本人ほど、読書を好む民族はいないといわれるくらいである。

幼児の頃から、読書をすると大人たちに大層褒められた。学校でも当然本を読むことを推奨する。その体験が積み重なって、日本人の読書好きはますます盛んになった。
しかし読書は、自分の頭で考察することの対極にあるものであって、思惟とか思索とは何ら関係のない、知的には非生産的な行為である。

西欧の哲人の言うとおり、読書は、人の踏み歩いた道を歩くことであって、未踏の草原に分け入り、自分の足で道を拓くことではない。大勢が歩いて「踏み固められた道」を歩くに過ぎない。知的には単なるトレイルであり生産ではない。稀には、読書を知的生産の糧にする傑物が居るが、膨大な読書家の数から見れば、ひと握りの人たちでしかない。

読書は大切だが、それを過大評価して、自分の頭で考えることをおざなりにしてはならないと思う。
万巻の書物を読んだところで、自分
の頭で発想し、その考えを思想に纏め上げ著作に著すことが出来なければ、何ら知的生産活動をしていないのである。
また、人の書いた物語をどれだけり多く読んでも、自ら一編の物語も書かなければ、つまり創作をしていなければ、なんら知的生産は無いのである。

読書は、小説好きや読書好き、即ち読書家にとっては、極めて容易い作業である。娯楽と言っても過言ではないだろう。読書家は知的消費者と言ってよいかもしれない。
娯楽にどれだけ熱心であっても、褒められることではない。好きだから楽しいから続いているだけのことである。
したがって、読書量を誇示するために読んだ書名を記録したり、大部の書物や長編を読破したなどと広言するのは、単なる自己満足で滑稽である
それと違って、読書を知的生産の資料として活用することは、評価されて然るべきである。活用の為に、読んだ本の検索表を作る必要があって書名を記録するのは、知的生産の技術の一つである。

思惟があって、それを人に伝える手立てとしての著作がある。著作は、その内容に関わらず、紛うかたなき知的生産の産物である。生産には多大な努力を要する。それから見れば、読書そのものは知識吸収の手段または娯楽に過ぎない。その読書が思惟の扶けとなり、独自の発想と著作に繋がって始めて、知的生産の段階に達する。

人は自分の考えで生きなければならない。借り物の、他人の考えで生きていては、それがどれほど明晰な考えで処世に役立つものであっても、自己のアイデンティティの確立には何ら与らない。
人々の歩んだ道をどれだけ数多くトレイルしたところで、当人の思惟は発展しない。極言するなら、人は自分の頭で考えたことしか、肚を括って実行できないようにできているはずである。
稚拙であっても迷誤であっても、怯(ひる)まず自分の考えを確立する努力が大切である。

どれほど多数の、卓れた他人の明晰な論考を読んで理解しても、自分の頭で思考したものを産み出すことがなければ、どこまで行ってもそれは他人の思惟の後を追いかけているだけのことである。学習の域を一歩も出ていない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 情操という忘れもの | トップ | 中国由来の風習と我が民俗 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿