当ブログでは、再三、情操の大切さを繰り返して来た。
情操とは、物事に感動する心、人を労わり共感する心、自然の多様性に感銘を受ける心、芸術を愛する心、その他諸々の好ましい人間的な感情である。
情操に最も近い英語はsentimentという語になるだろう。
意味の広いsentimentの訳語に「感傷」という明治の和製漢語を当てた学者さんは、日本人の情操理解に誤解を招いた。この訳語ゆえに、情操にマイナスイメージを抱いたり無関心になってしまう人は多い。感傷は情操の内のごく限られた情念である。
企業社会はその体質から、情操を重要視してはいない。企業戦士として会社に忠勤を励んだ人たちは、企業を退めて初めて、情操の意義に気づく。晩節が否応なくそのことを気づかせるようだ。
情操は、私たちが老いて、寄る辺ない身であることを自覚した時に初めて、その存在と重要性を顕す。
情操は老境にある身を、支え慰める源泉である。個人として、人生を全うするには、何よりも必要なものである。
長い社会生活の涯に臨んで、個人にとって情操が不可欠であり、それが後悔しない人生を実現するために必須なものだったと知る。
情操は後からでは取り戻せない。情操が育つに好適な適齢期というものがある。自意識が芽生える9歳前後から感性が充実する18歳ぐらいまでであろうか?
情操が育つ多感な頃は、受験勉強や部活練習に忙しく、情操を養う機会を失いがちだった。残念ながら、日本の教育システムは、生徒が個別に情操を育み養うことに対して懐が浅い。
情操は教養の源泉である。
人は皆、教養の必要性は理解しているが、その人たちの中にも、情操の養成には迂闊だった人たちが居る。
晩節を迎え集団から離れ、人生の秋風に触れて初めて、その重要さに気づくのではないかと思う。
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