道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

「左舷落水、右転舵!」

2024年09月05日 | 随想
老生が未だ40代で多少釣りに興味があった頃、浜名湖内での釣りは、専ら船外機付きの釣舟を利用していた。釣りだけでなく、家族の海水浴や潮干狩りなどにも舟を度々利用した。家から係留地まで近く、湖内を移動するには便利だった。
この舟は、湖畔で民宿を開業しようとした人が所有していたのだが、建物が旅館業の基準に叶わず開業を断念したことで不要になったものを譲り受けたのだった。

数年後、知り合いがディーゼルエンジンの中古漁船で、活発に外海へ釣行していることを聴いた。
いずれは自分も外海に出たいと願い、取り敢えず保有していた小型船舶操縦士4級の免許を2級にアップしておこうと、浜名湖内にあるヤマハマリーナでの免許取得講習に通い始めた。もともと、海は好きだった。

受講者は60才代の老人から20才代の若者まで、年齢職業の雑多な10人ぐらいのクラスだった。
ヨットやプレジャーボート目当ての人ばかりでなく、当時盛んになりつつあった、遊漁船事業に転業する漁師さんの子弟も混じっていた。

その受講者たちの中の最年長の人は、洵に気障りな人物で、講習仲間から嫌われていた。
何故かというに、法令や機関などの学習が主体の座学の都度、この人物は教室内で、学習能力の高さをひけらかすのである。皆が憶えることに苦心しているのに、その人は忽ち習得してしまうのだった。

毎回の授業の終わりに、その夜の講習内容の確認テストと正解の説明があるのだが、誰よりも早くテストを仕上げ、得々と周りの受講生にそれをひけらかす。皆苦々しく思っているのだが、誰も口に出さないから、言いたい放題。
おそらく、学校時代から学習能力が高く、それで現在の地位を得た人だろう。
ただ、その自慢の仕方がこどもじみていて、とても60代の、功なり名を遂げた人物の様ではなかった。要するに、講習の仲間から顰蹙を買っていたのである。

座学を終え試験が済むと、実技の講習が始まり、それを終えると、一同待ちに待った実技試験である。

試験官ひとりと受験者数人が試験艇に同乗し、実際に受験者が艇を操縦し査定される。
実技試験の項目には、法令にしたがった操船標準が幾つかあると共に、事故防止の為の操船手順がある。
船舶から乗員が海に落ちた場合には、操舵者は反射的に事故を回避する操船をしなければならない。それが着実に実行できるかどうかを試験官は見ている。

落水事故での手順はこうである。
(右舷での落水事故の場合)
①操舵者(受験者)が操舵中に、降順の受験者が、右舷の舷側から落水者に見立てたブイを海に投げ込み、「右舷落水!」と操舵者に聴こえるよう大声で叫ぶ。
②操縦者は反射的に「右舷落水、右転舵!」と大声で復唱・応答し、艇の舳先を落水者の方向に向けるよう舵輪を右に回す。スクリューで落水者を傷つけないための、最も重要かつ基本の事故回避操船である。

この②の実技試験の際、例の人物が、とんでもない間違い(彼にしては)をやらかした。
後番の受験者がブイを左舷の海に投げ込み、「左舷落水!」と大声で操舵者(受験者)に告げた。得たりとこの自信家老人、「左舷落水右転舵!」と声高らかに復唱・応答した。???
左舷に落ちた落水者に対して、あろうことか右にハンドルを切り、スクリューの回る船尾を落水者に近づけると応答したのである。
正しくは「左舷落水左転舵」である。同乗の受験者一同、笑いを堪え、欣快の目を交わし、日頃快く思わない彼が不合格になることを期待した。試験官は表情を些かも変えない。

座学の試験問題なら即座にアウトだろうが、誤った応答をしたものの、操舵は実際に左に転舵していたので、その人は不合格を免れた。応答が間違いで、実技は間違っていないということだろう。
この「左舷落水、右転舵!」の背反した復唱・応答は、私の記憶に鮮明に刻まれた。(どんなに卓れた人でも、誤りを犯す)・・・
受講終了と免許証受領の日、教室に彼の姿は無かった。

以後この人物に会うことはなく、彼が海とどのように関わったかは知らない。
私は健康の為もあって山登りに関心が移り、取得した免許を活用することは無かった。

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