明治になって近代化し、西欧の学術を急ぎ摂り入れる必要に迫られた日本は、学問・芸術・政治・行政などの各分野での知識や技術に精通したエキスパートが必要だった。その需要を満たしたのは「お雇い学者」と呼ばれた欧米人学者・技術者たちだった。
しかし、大学制度が国内に整って以降は、2・3年で契約任期が終了する欧米人のお雇い学者では、教授陣を構成し維持するのが困難、日本人学者の充実を望む声が高くなった。
そこで、自前の教授陣の卵を養成するために、明治8年(1875年)から西欧に「官費留学生」を送り出す事業が始まった。
国家(文部省)が、東京帝国大学卒業生の中から、学業・品行・志操・身体が優秀な若者を選抜し、5年間、国費で海外留学させる制度。この制度は昭和5年(1940年)まで65年間続き、3000名の官費留学生を輩出した。
官費留学生は日本に帰国すると、日本の各地の帝国大学に採用され、各学科の教育と研究に貢献した。彼ら官費留学生が、日本の学問の基盤を形成し、以後の学術発展の基礎を築いたのである。東京帝国大学は、日本の学問の本拠となった。
この制度は日本の学問レベルを一挙に高めることに貢献したが、惜しむらくは、実用学の短期促成を急ぐ余り、本来エリートにこそ最も必要で、時間をかけて学ぶべき教養学(リベラルアーツ)の教育が等閑になったことである。それが今日に至るまでのわが国の、近・現代史に遺る数々の、国家的な過誤を招いた遠因ではなかったかと考えている。
人は実用学を学ぶだけでは知的な偏りを免れない。教養学(リベラルアーツ)は、ギリシャ・ローマに始まる西欧文明の精華である。無数の学殖の蓄積が連綿と築き上げた、壮大な学問体系である。
西欧人の間には、実用学と教養学は車の両輪であるとの認識が不動であるように思う。特に、人間を扱う政治家や公共部門の行政官には、教養学(リベラルアーツ)の知識は欠かせない。見識と良識は、それによって磨かれる。
国家がエリートに対して施すべき教養学(リベラルアーツ)とは、国民の幸福実現を目的に、人間をより深く理解するための学問、すなわち哲学・神学・歴史学・博物学・文化人類学・文学など、人文科学の総称である。自然科学と社会科学を除いた、科学分野である。
近世以降啓蒙思想の洗礼を受けた西欧先進諸国や米国では、このリベラルアーツの知識を欠く者はエリートたり得ないと考えられている。当時の文明国で、啓蒙主義の洗礼を受けなかったのは、鎖国制度を敷いていた日本と中国である。
官費留学生の5年間の留学期間は、専門分野の学習で目一杯、彼らたちに西欧の壮大な学問体系を習得する時間的余裕はなかった。
官費留学生たちを送り出した日本の文部省は、専門的実用学の早期習得を留学生に期待し、初めからリベラルアーツ(人文学)を学ばせる考えはなかったようである。
漢学の素養が豊かにあっても、西欧の人文学には疎い明治初頭の統治階層には、リベラルアーツの国家的重要性に思い至る人は極めて少なかったのだろう。
おそらく日本の教育者や文部省の役人たちは、歴史的には対等に見える漢学が、ギリシャ・ローマの学問と遜色ないと自負し、漢学の教養がリベラルアーツに取って代わり得ると誤認していたのかもしれない。西洋文明と対峙する都度、必ず顕れる異様なまでの自尊心(大和魂)が、災いとなっていたかもしれない。
当時の日本の教育機構は、近代化の実務エリートの養成には、専門分野の教育で十分と考え、専門外の分野の教育(教養教育)は、漢学の素養豊かな日本のエリート学生に西欧人文学は必要がないと考えたと思われる。明治のインテリの和魂洋才という便宜主義が、リベラルアーツ(人文学)の学習を国家的レベルで等閑にさせたと思われる。
以来、日本の大学では、実用学に比し人文学の軽視が普遍化し、人文学を専攻する学生以外は、高等教育の初期の一時期にざっと履修する程度の、粗雑な教養教育の伝統が定着した。
明治の初頭の為政者や御用学者には、西欧のリベラルアーツ(人文学)の意義と内容がわかっている人が僅少だったと考えられる。
人文科学は自然科学と違って、華々しい発明・発見や理論の絶対的普遍性がある性質のものではなく、実用性に乏しい。しかしギリシャ・ローマ以来の学殖の蓄積が、近代の諸科学の基礎・原点となっていることは動かし難い事実である。
西欧の先進国は、近代になって国家がエリートにリベラルアーツ(人文学)の特別教育を施すのは、国民の幸福の為であるとの認識に立ち、それは西欧各国の教育界を横に貫く常識だった。
「殖産興業」と「富国強兵」を急ぐ明治政府には、この考えは維新による飛躍の勢いを削ぐものと映ったことだろう。国民の幸福の為にあるエリートという考えを、全く理解できなかったに違いない。
神へのロイアルティをもたない日本の俊英たちには、国民(庶民)の幸福の為に自分たちが在るという考え方には、到底同意できなかったろう。
エリートは天皇を君主に仰ぐ国家のためにあると考えられていた。それまでの長い旧幕時代、お上(幕府)やお家(藩)大事で生きて来たのだから無理もない。近代日本のインテリの意識は、どう贔屓目に見ても、ルネッサンスと啓蒙思想の西欧に、200年は遅れていたのである。
その結果、西欧にあっては普遍的だったエリートへのリベラルアーツ(人文学)の教育を導入する好機を逸してしまったのである。
それは敗戦後の諸々の国体・社会制度の改革の機会にも改善されなかった。以来今日まで、フランス・イギリス・ドイツ・アメリカの先進国とは、社会の学問に対する考え方、エリートの責務に対する考え方が大きく乖離している。
民主国家の政治家・官僚は、国民の幸福のためのエリートでなければならない。見識は高く判断力が衆に優れていなければならない。国費が注がれている大学は、国民の幸福のためにある。それが西欧民主社会のエリートに対する常識である。
社会に貢献できる類稀な人材であるなら、一般人と異なる特別な教育カリキュラムがあって然るべきと考えるのが西欧の先進国の考え方である。
西欧のエリートは、専門教育も文・理の双方を学び、同時に語学や歴史・文学など人文学の学習を怠ってはならないのである。エリートは、バイリンガルどころではない。5ヶ国語に通じる学生も稀ではない。言語の系統が近い利点を差し引くとしても、日本のエリートとの差は大きい。西欧社会は、ルネッサンス以来のリベラルアーツの文化的伝統を確実に引き継ぎ、国民はその恩恵に浴して来た。
フランス・イギリスの政治エリートの、学力・教養の高さ優秀さは夙に知られている。表に出ないが、その裏には2000年の伝統をもつリベラルアーツが密着している。
その対極にあるのが、日本の政治エリートである。
業務出張のはずのパリエッフェル塔の前で、おのぼりさんよろしくはしゃぐ姿を撮り、後援者や選挙民に臆面もなく配る女性議員が居る。選挙の時には才媛と喧伝されていたに違いない。彼女らが初めてではない。彼女らの大先輩たちは、過去に渡欧すると、大使館員や領事館員に観光ガイドの役を務めさせていた。大臣たちの外遊という言葉が、その間の事情を何よりも雄渾に物語っている。大臣という高い身分には、研修や学習などは不要と思われていたのである。
日本では、大学または大学院の教育を受けただけで事足りていると信じ、自らの教養を疑うことを知らない政治家が少なくない。それは世襲政治家に多く見られる。
アメリカの大学や院を出ていることを最高の教育を受けたと自負し、天下御免の印籠にしている。西欧の政治エリートと対等かどうか、自ら比較しようとしないからそのようになる。
啓蒙主義・啓蒙思想の洗礼を受ける機会を逸した我が民族と、西欧各民族との200年に及ぶ思想的、学問的懸隔は、これを問題とする意識がなければ、拡がりこそすれ狭まることはない。わが国の政治家も官僚も、西欧的尺度で謂うところの国政エリートに程遠いことを、本人も、選挙民であるわれわれ国民も、知らなければならない。選良は投票数だけで生まれるものではない。充分な教育が必須である。
日本と西欧の政治家・官僚を比較するとき、自然科学・社会科学はもとより、人文科学の知識と語学において、彼我の格差は歴然としている。国際会議などで会同した後の非公式な交流の場で、忌憚なく意見を交換したり、肝胆相照らす仲になるまでの深い懇親を続けるには、ウイットやエスプリが必須だろうが、その素養となるべき人文学の教養と語学は欠かせない。
政治家というものはわれわれ庶民とはかけ離れた能力を持つ存在でなくてはならない。政治家は知性において、決して庶民的であってはならないと思う。
アメリカの大統領とファーストネームで呼び合って、悦んでいる政治家は要らない。キャッチボールをして、懇親を深めたと大満足されても困る。もっと深いところで、尊敬し合う関係を構築出来なくてはいけない。真の国政エリートがこの国には欠けている。
西欧各国のエリートたちの学ぶ場は、ひとつの大学にとどまらない。大学間の単位互換制度が完備されているので、優れた教師や学派を求めて各国の大学・院に転籍を繰り返す。一般的な学生でも、複数の大学で学ぶことが珍しいことではない。そのような教育環境では、一大学の卒業証書は重みをもたないだろう。少なくとも、卒業証書にしがみついて老年を迎えることはないだろう。エリートとは、あらゆる学問に精通し、広く社会と人間を自分の目で見て歩き、世界の歴史に通暁して数か国語を操れる人の謂である。それが、西欧の国政エリートの標準である。資本主義の牙城アメリカでは、やや事情が異なるかもしれないが・・・
苟も政治家を目指し国政に参画する意欲と能力のある若者には、国は西欧の国政エリートと同等以上の教育カリキュラムを用意し、費用を惜しまず丁寧に育成しなければならないと思う。
ミサイルの備蓄数を増やしても、国民の命と財産は守れない。外交による交渉無くして、戦争を抑止したり回避したり、和平を実現するのは不可能だ。
傑れた判断力、理解力、交渉力をもった国政エリートの養成を、私たちは消費減税以上に、国に強く求めなければならない。国民の幸福は、全て真の国政エリートの存否にかかっている。
真の国政エリートを国費で育成することは、決して民主主義に反するものではない。教育の機会均等によって選出された逸材を、国家が国民の幸福のために育成するのは、何ら不平等ではない。
リベラルアーツを深く学び、神の意味を識る、優れた学識と見識をもった政治家と行政官が多くを占めれば、民主主義は守られる方向に進むに違いない。相対的に、数を恃む反知性主義は衰えるだろう。民主の精神と良識を欠く為政者を、国政の場に再来させないことが大切である。
世界が混迷の度を高めている今日、明治の官費留学生の時代に等閑にした学問の補填に国家が真剣に取り組み、真の国政エリートの養成を急ぐのでなければ、この国の将来は危ういのではないか。令和の官費留学生の派遣制度が、必要ではないだろうか?
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