道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

幸福

2021年05月21日 | 随想

コロナウイルスの発生によって、私たちはコロナ感染という刃を喉元に突きつけられたまま、自宅や職場・学校で、逼塞の已む無い状態に置かれている。

今を去ること77年、私たちの国の軍隊は制空権を失い、迎撃手段の無いまま防空活動を一般市民の避難に委ねるしかなかった。市民は連日連夜B29の空襲爆撃に怯え、空襲警報のたびに防空壕に潜む不本意な生活を余儀なくされた。コロナ禍は太平洋戦争末期の私たち父祖の時代を連想させるものがある。

今私たちは図らずも、戦時下にあった父母・祖父母の胸に去来していた心情に近いものを、擬似体験または追体験させられているのかもしれない。歴史は繰り返す。
現下のような異常な状況は幸福の問題を考えるうえで、滅多にない機会かと思う。

毎日の生活で、テレビを見ない日はない。しかし、テレビという媒体は、情報はもたらすが人の幸福には何ら関与しない。ドラマも情報番組も、幸福にも不幸にもいっさい関わらない。無くても一向に差し支えないものである。インターネットのSNSは玉石混交で、毒も薬もある。効用の有無は利用者に委ねられる。情報というものは幸福にはまったく寄与しない。

それに対して、食事ほど幸福感を左右するものはない。外食であれ内食であれ、日々の食事は幸福に大きく関わってくる。幸福は日常普遍の中にある。

生活・交際・学校・音楽・スポーツ・読書・稽古ごと・趣味ごとなど、おっと忘れるところだったが恋愛は幸福を感じさせる最たるものだ。
幸福はそこらじゅうにある。人によって幸福と感ずるか感じないかの違いがあるだけだ。

幸福は大きく重いものではない。
それは小さく軽やかで儚いもの、翔んだり漂っているものである。そしてそれは必ず唐突に向こうから舞い降りてくる。追えば逃げるし掴もうとすればすり抜ける。捉えどころのないものだ。だが、日常生活の中で、これが幸福だと実感する時がしょっちゅうある。

面白いことに、幸福は金員と無関係、対価と無縁である。金員を増し対価を多く払えば、より多くの幸福に恵まれるものではない。無償の行為にこそ、真の幸福は宿る。

ネコのように、音もなく後ろに来て座っていることもある。畑を耕していてふと目を上げたら、隅の木の枝に止まってこちらを見ているジョウビタキみたいなもの?、、、

幸福と不幸は表裏一体のものである。「禍福はあざなえる縄の如し」という。幸が不幸を招くことがあり、不幸が幸福を導くこともある。どちらか一方が続くものではない。唐突にターンするから、不幸には常に備えておかなければならない。

幸福は、それを長くとどめ置くことができない。来るも去るもとりとめがない。その存在を定かに確かめることもできない。何気ない時に強く実感できるものである。虚心坦懐でさえあれば、幸福は向こうから寄って来るものかもしれない。




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