道々の枝折

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可処分時間

2022年08月05日 | 人文考察
コロナ対策で在宅勤務(ホームワーク・リモートワーク・テレワーク)が日常化した結果、コロナ前には通勤に充てていた時間が、自由に利用できる時間になった。また、オフィス内で分担して処理していた仕事を、自宅のPCネットワーク端末で繋がり会議や事務処理をすると、ムダな待機時間が減り能率が向上する。遣り方次第で、拘束時間中でも空き時間が増える。その時間を、自分の生活に組み入れることができる。
可処分時間という概念に目覚めた人たちが、若い人たちに急速に増えてきているようだ。拘束時間中の可処分時間の存在に気づいた仕事が速い(高能率)人たちは、積極的に可処分時間を増やそうとする。

在宅勤務で可処分時間を増やした人たちは、その時間を、育児の補助や食事づくりの手伝いなどに充てることができる。将来コロナが終息しても、自宅で会社の仕事をこなし、可処分時間の増大に努め続けるだろう。賃上げが思う通りに進まず、可処分所得が増えないなら、座して待つより、可処分時間を増やして、体力づくりや自己啓発に励む。幸福度を上げるのは、可処分所得に依る消費ばかりではないことに目覚めたのである。要領の良い働き方が普及するのは好いことだ。

「稼ぐに追いつく貧乏なし」と言われ、無闇に忙しくて余裕が無い状態を、半ば誇りにしてきた日本の勤労者の常識が見直されつつある。日本で最も遅れていた、事務仕事の労働生産性を上げる効果を、コロナ禍のリモートワークが促進したのである。

若い人たちは、収入の増加すなわち可処分所得の増大だけが、必ずしも自分や家族の幸福に結びつかないと気づき始めた。人が働く目的の一つは、可処分所得を増やすためだが、同時に休日以外の可処分時間も増えるのでないと、余裕時間を増やし豊かな消費生活を享受できない。可処分時間が増えなければ、平日に、任意に社交・自己啓発・趣味・スポーツを楽しむことはできない。任意に処分できる所得と時間は車の両輪である。自由な時間が増えなければ、所得が増えても生活は豊かにならず、幸福感は増大しない。結果として人生を楽しめないことに、働く人たちが気づき始めたのである。

これまでの可処分時間は、生活時間から拘束時間を差し引いた残余だったが、それを拘束時間の中から積極的につくりだす生き方が、可能になりつつある。このことの社会的意味は大きい。個人主体のホームワークは、それぞれの個人の働き方により、積極的に可処分時間を増やすことができる。

私たちの社会は、融和を何よりも大切にしている。親睦会とか懇親会、睦み懇ろになることが推奨されている。同窓会・県人会・戦友会・隊友会。睦み懇ろになる集まりは、枚挙にいとまがない。つまり私たちは、日常人と顔を合わているので、フレンドリー(親和的)であることが何よりも大切であり、それを社会から暗黙に要請されているのである。

この親和を何よりも大切にする生き方は、そのための時間を各人が供出することにより成立する。親睦・懇親の為に各自が時間を相互に供出し合うのでなければ、親和の機会を維持することはできない。

私たちは永く、時間は天が万民に公平に与えたもので、個人に固有の生存時間や可処分時間というものについては、深く考えて来なかった。自分の時間も他人の時間も出所は同じ、空気や水と同じ一律のものと考えてきた。個人各々によって、その働き方によって、可処分時間が大きく違うことを明瞭に認識していなかったのである。

時間を個人の所有物と認識するようになったのは、在宅勤務のリモートワークの体験が大きく貢献している。可処分時間の多寡が、収入を伴わない価値として、クローズアップされて来たのである。

自分が在宅勤務していると、モニターの前に拘束される時間とモニターと向き合わないでいる時間とが明確になる。家にいるから、可処分時間を意識しないではいられない。それは積極的に可処分時間を増やそうとする意識に結びつく。
自分の専有する時間の価値にもっと早く目覚めていたなら、この国の社会は今とは違ったものになっていただろう。

かつての働き方は、一旦会社に出社したら、勤務時間は即拘束時間。お付き合い残業という時間の浪費までつきまとっていた。所得は実際は純労働の対価だが、労働時間の対価または拘束時間の対価と錯覚せざるを得なかった。これでは、生産性は上がらない。日本の勤労者は、生活時間から拘束時間を除いた残余のみが、処分できる時間で、それは自分でつくり出せるものとは考えられない時代が長かった。神から与えられた限りある生存時間の有限性を常時意識するだけで、勤労・社交・勉学の形は変わる。その時代は、勤労時間後の残余時間をどれだけ自分や家族のために有効につかえていただろうか?
自分の時間を、自分と家族のためになるべくつかいたいという願いは真っ当である。江戸期以来の、滅私奉公、働き病の我が国社会も、勤労者が可処分時間を意識すれば、目に見えて変わるだろう。

若い人々に、自分の持てる生涯の生存時間を無駄遣いせず、出来るだけ自分のために有効に使おうという気運が満ちてきている。
商業メディアのつくるイベントや、目的や効果のよくわからない行事・習慣に自分の時間を割かれたくないという考えは、スマホという情報機器を各自が所有する時代になって、初めて顕在化して来たものである。

スマホの情報は選別が可能で、押し付けはある程度排除できる。現代人は今漸く、自分の人生の可処分時間の多寡を、意識するようになった。それぞれの可処分時間はそれぞれの生き方と関わってくる。

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