道々の枝折

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壬申の乱(その1)

2019年03月08日 | 歴史探索

壬申の乱

その1

近江の古代史探索を思い立った4前には、「壬申の乱」について詳しい知識を殆ど持ち合わせていなかった。昔の教科書では、きわめて簡略な記載しかなかったと記憶している。日本でもどこの国でも、歴史教科書には、詳しく書きたくない事柄が数多くあるのだろう。

謎に包まれた日本の古代史への入り口は、「壬申の乱」にあると見て、想像力を巡らせ、推断独断で事変を俯瞰してみたい。

壬申の乱の通説は、大友皇子の近江朝廷が、内々に吉野に在った大海人皇子を討伐する軍勢の手配をしたのが先手で、それに気付いた大海人皇子とその一統の逃避と反攻とが後手という、日本書紀の記述に従っている。

しかし、古事記序文と日本書紀とに見られる矛盾や書紀の文飾を見抜き、漢籍引用の頻繁さを検証した専門家たちは、大海人皇子による周到に計画された政権簒奪との見解をとる。後世に疑念の絶えない史実は、歴史の記述者たる勝者の潤色や捏造・隠蔽が多いからである。

王権の権威を守るための正史、日本書紀編纂の過程で、大海人皇子を正当化する編集が行われたであろうことは、権力というものの性質を考えると肯定できる。

天皇(すめらみこと)の称号は、天武天皇(大海人皇子)から始まっているので、天智天皇以前の天皇は大王(おおきみ)と表記するのが正しい。しかし文中では煩雑を避けるため、天皇であった人は全て天皇で表し、称号を省き諡号のみで表記した。

.はじめに

壬申の乱は、近江・大倭・伊賀・伊勢・美濃の国々を戦域とし、その動員兵力は双方合わせ数万人に及ぶ、古代史最大の内戦だった。それほどの大事変でありながら、史料が殆ど古事記、日本書紀に限られるのは、事件の本質がクーデターであったことを示すものである。

クーデターは隠密裡に準備をしたうえで、好機を掴んで実行される。したがって、事実を後世に伝える原資料(史料)は当然少ない。反乱の実行者は自己に不都合な記録を改ざんまたは抹消するであろうし、敗者とその関係者は処罰を恐れて一切の書証を遺さない。

いつの世でも、政権を戦いで奪った側が先ず初めにする手続きは、新しい権力の正当性と敗者の罪科を広く世に知らしめることである。記録の改変、捏造、編集は必ず行われるものと考えなければならない。反乱というものは、信頼に足る文献史料の極めて乏しい歴史的事実である。

決起直後の3日間で、戦略上の要衝、不破道と鈴鹿道を閉塞し、伊賀・三重・桑名などの重要な拠点を押さえ、美濃安鉢磨郡(みのあはちまのこおり)の【和蹔】(わざみ[関ヶ原])に本営を置いた大海人軍の電撃作戦が、以後の戦局展開を有利に導いたのは間違いない。官軍の初動の遅れは、大海人軍の蜂起の意外性に近江朝廷が動揺し、作戦会議に時を浪費したことと、【大津宮】の常駐兵力が、事態に即応できる戦力と機動性をもっていなかったことの証左である。

常駐兵力と武器・兵糧が潤沢な筈の朝廷側に即応戦力がなく、畿内での緊急の募兵も思うに任せず各地で敗退を重ね壊滅に至った最大の理由は、一に初動の遅れにある。

天智天皇崩御直後の大津宮は、大友皇子の即位準備や天智の葬礼儀式、更に唐の対新羅戦への援軍要請に応えるための兵員徴募に追われ、ある意味権力の空白状態にあった。

高句麗滅亡後の半島では、強力になった新羅と唐の関係が悪化し、双方が援助を求めて頻繁に使節が来朝していた。唐は新羅との戦いに敗れると、白村江の戦いでの倭兵捕虜返還の見返りに、唐への軍事援助を近江朝廷に要求していた。

大海皇子の拠る吉野への警戒は緩かったに違いない。吉野に隠棲する前に大海人が天智に語った言葉を、大友は信じていたのだろう。朝廷の重臣の中には内心警戒する者もいただろうが、具体的な行動は取れなかった。大友本人は、大海人に対して不信感を抱いていなかったと見るのが妥当だろう。

大海人皇子は、大津宮における大友皇子5重臣から成る政権首班の情勢認識の甘さ政権運営の未熟および内外の政局緊迫の時期を捉え、吉野で密かに反乱の準備を調えていた。天智天皇の崩御を決起の好機と定め、準備や工作を進めていたに違いない。大海人は天智の下で、20年も政権運営に携わっていて、王権体制の隅々まで知悉していた。

.事変に至る内外の事情

斉明天皇(女帝)と中大兄皇子(天智天皇)は663年、友好関係にあった百済を救援する大軍を半島に派遣し、白村江(はくすきのえ)で唐・新羅連合軍に大敗した。

唐・新羅軍の倭国侵攻を恐れた飛鳥朝廷は、国内に臨戦体制を敷き、西国での築城や防人の配備など、諸々の防衛対策に追われた。その最大のものは、6676月に中央豪族の反対を押し切って、より防御性と逃避の便宜に勝れた近江大津へ遷都したことである。

それらの防衛政策は、半島遠征で人的にも経済的にも疲弊した畿内から西国に至る諸国に、更なる苦難を押し付けた。その上670年に「庚午年籍」をつくり、徴税と役務徴発の厳密化を図ったことで、中小豪族はじめ民衆の心は近江朝から離反する。天智朝の末期は、朝廷が国の人心を喪っていたと見てよいだろう。

6711月、天智天皇は大友皇子を太政大臣に抜擢し、左・右大臣と3人の御史大夫を付け、政権中枢に据える人事を行う。これにより、長く天智の片腕として政権を補佐し、廷臣や豪族たちの信頼が篤かった皇太弟大海人皇子は、実質的に政権中枢から外されたことになった。

天智の対外軍事援助に因る徴税や労役の過酷化に対する不評は、権力を継承した大友体制に重くのしかかり、近江朝廷は中央や地方の豪族はじめ人民の不満を一身に受ける立場となった。大津京に火災変事が相次ぎ、人心の不安は募る一方だった。その最中の6719月、天智天皇は病に仆れる。

病状が重篤に陥った1017日、天智天皇は病床に大海人皇子を呼び、皇位を譲る旨を伝えた。

天智の言葉を真に受けて皇位継承の意志を示せば、謀叛の疑いでただちに粛清される危険を察知した大海人は、病身を理由にそれを固辞し、ただちに出家を願って天智の許可を得た。武器の返納まで申し出た大海人は、叛意なきことを朝廷に明示した。

1019日、大海人は、吉野に隠棲し修道することを天皇に願い出た上で、妻子と従者30人ほどを伴って【大津宮】を出、翌20日に【吉野宮】に入った。この際、身辺警護の舎人(20人前後)の半数を解任したと日本書紀にある。近江からの諜報活動を恐れ、氏族的に結びつきの強い信頼できる舎人たちだけを残し、吉野宮の結束を固めたのではないだろうか?

その後大津宮では 1121日と29日の2度にわたり、5人の重臣が大友皇子を奉じて政権を確立する旨の誓盟が行われた。大友皇子を皇位の継承者として奉じることを、重臣たちは天智天皇の眼前で誓約したのだった。

.天皇の崩御

それからひと月半経った123日、天智天皇は崩御した。吉野隠退から天皇崩御までの期間、大海人皇子の動静は一切記録に表れていない。おそらく、隠密裡に反乱の準備、情報の収集、多数派工作に全力を注いでいたと思われる。

支持勢力の拡大工作・攻略地点の選定・兵員武器の確保・挙兵部隊の集結地や全軍指揮のための本営地の選定・部隊指揮官の人選など、大海人皇子は多岐にわたる作戦の要項を、側近の舎人たちと協議し、蜂起の準備を進めていたにちがいない。吉野宮はさながら、クーデターの作戦計画本部のようであったと推測できる。

大友皇子は天皇崩御後の直後から、亡き天皇の葬礼(殯もがり)の準備と自身の即位の準備、更に唐からの軍事援助要請に応ずるための兵員徴募武器・糧食の確保に忙殺される。吉野はおそらく、大津からノーマークの状態になっていたと推測される。

近江政権は、大海人の吉野での隠棲修道を疑ってはいなかったと思われる。大友皇子は伯父の大海人皇子とは気質が違い、謀略を好まず猜疑心も強くない性格であったと思われる。

.挙兵前夜

天智天皇崩御から半年後の672522日、吉野に在る大海人は、舎人(とねり)の朴井連御君(えのいのむらじおきみ)から、朝廷が美濃と尾張の国宰(くにのみこともち=国司)らに命じて天智の陵墓建設に名を借りて兵を徴発、吉野攻撃を準備していると告げられた、と日本書紀は伝える。

この時の朝廷の徴兵の真の目的は、唐の再三の要請による対新羅戦用の兵力を確保するための喫緊の人員手配だった。

大津宮は、疲弊しきった畿内や西国では徴兵できず、大津宮から最も近い東国の美濃・尾張で人員を徴発をするしか方策はなかった。

美濃安鉢磨郡は大海人の私領地、尾張は在地豪族たちが母方の氏族と血縁的結びつきが強い勢力基盤である。近江朝廷が大海人を些かでも疑っていたなら、美濃・尾張での兵員の動員は無かったはずだ。大胆な想像が許されるなら、大海人は近江朝廷が美濃・尾張で徴兵することを黙認または承認、場合によっては支援さえしていたかもしれない。官の命で徴募した大軍をそっくり反乱軍側に寝返らせ自軍の主力とする、これは大海人でなければ考えつかない戦略だった。

朴井連御君の報告の意味は、大海人の本拠地である美濃・尾張で徴兵された対新羅戦用の官軍を、大海人側に寝返らせる工作が成功した旨の報告だったのであろう。

.挙兵指示

報を受けた大海人は523日に村国連男依(むらくにのむらじおより)ほか2名の舎人を美濃、安鉢磨郡にある大海人の領地、湯沐邑(ゆのむら=皇族の領地)の湯沐令(ゆのうながし=湯沐邑の管理官)の多臣品治(おおののおみほむち)のもとへ急派する。3人の舎人(とねり)は、不破道封鎖決起部隊編成の任務を帯びて現地に急派されたものと思われる。

朝廷が対新羅戦用に徴兵した兵力を自軍に取り込み用兵するという、この乱最大の事前工作が成就した時点で、クーデター計画は実行に移された。

日本書紀の記述では、近江朝廷は天智の陵墓建設のための徴兵と目的を偽って、吉野攻撃軍を準備していたとする。これは大海人皇子すなわち天智天皇の正当防衛を主張するがための文飾であろうと見られている。

実は美濃・尾張の国宰たちの徴兵完了を、誰よりも一日千秋の思いで待っていたのは、ほかならぬ大海人皇子だったのである。


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