道々の枝折

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権力の略史

2023年12月11日 | 人文考察
権力は一旦確立すると、自己増殖し始め肥大する。あらゆるものが権力に靡くからである。
長い時間はかからない。権力成立の初期ほど、肥大化の速度は速い。
権力は重層化複合化の形をとって膨張する。

権力が重層化するのは、確立した権力に先を争って追従しようとする劣位の中小権力が多数あるからである。それらは保身のために旗幟を鮮明にする必要がある。
他方新権力と覇権を争って屈服した旧権力に残された道は、新権力に服従するか吸収されるかして、組み込まれ生き残るしかない。新権力が旧権力の遺産を利用する必要のあるときは、権力の複合化が起こる。

日本の権力が他の国々の権力と際立って異質に見えるのは、この複合化である。権力の交替に伴って、旧勢力への徹底した粛清は起きにくい。権力に潔癖性が乏しく、旧勢力と新勢力が協和できるのは、顕著な特徴かと思う。民族の気質に帰結するのだろうか?したがって、日本の権力は巨大化し易い。
凡ゆる権力は、このように重層化複合化によって、自律的に膨張する。

①この国で最も早く確立した政権はヤマト王権だった。飛鳥時代である。その権力を独占的に行使する蘇我蝦夷・蘇我入鹿を、クーデターで倒した中大兄皇子が天智天皇となり、朝廷を近江大津宮に移した。近江大津京遷都である。白村江の敗戦により、新羅・唐の侵攻を怖れ遷都したと見られている。

天智天皇には後継の太子、大友皇子がいた。遷都5年後、死期を悟った天皇は弟の大海人皇子に皇位を継ぐよう求めた。大海人皇子は兄天皇からの謀反の嫌疑を虞れて頑なに固辞し、妻子・従者と共に吉野に籠居する。大友皇子への叛意を疑われないためである。
天智天皇が薨去すると、ただちに、大海人皇子は美濃・尾張の兵を糾合し、大友皇子の近江朝廷に対して反乱を起こした。これが「壬申の乱」すなわち、軍事クーデターによる権力の奪取である。

②大海人皇子は近江朝廷軍を破り、大友皇子を敗死させると、飛鳥淨御原に宮を建て、天武天皇を宣称し即位した。新権力の都は藤原京である。新羅来寇の危惧は霧消したのである。

③天武天皇が崩御すると、妃の鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ)が即位し、持統天皇となる。以降天皇の親政が続く。
持統天皇は奈良に大仏を建て、権力の象徴とした。この時、宗教権力が朝廷権力に複合した。律令制度によって国を統治した奈良時代のことである。

④文武天皇の平城京を経て桓武天皇の平安京の時代になると、朝廷を警護していた武士や地方の豪族が台頭する。朝廷内の内紛から武士の頭領が政治の実権を握った。平清盛である。
旧権力は新権力に武力で対抗できないから、形式的権力として隠然と新権力に協力し、存在を示すほかはない。
以後武家権力は、源頼朝・北条一族の鎌倉政権から、南北朝時代の動乱を経て足利政権と、2度の交替を累ねる。しかし、武家政権は漸次支配力を失う。室町幕府の弱体化は権力の空白を招いた。
室町幕府の権力が有名無実化すると、中小武士団の権力闘争が始まり、小権力が乱立して天下は乱れた。戦国時代である。

⑤乱世を武力で制圧し、天下の統一を果たしたのは織田信長だが、政権を確立する直前に、部将の明智光秀に弑された。信長の掌握した権力は謀叛人光秀を討った豊臣秀吉が引き継ぎ、国内を統一する。
秀吉が外征により大名たちの信望を失い死没すると、旧豊臣家属将団と徳川家との間に新旧権力の覇権争いが起こり、関ヶ原、大阪城冬・夏の陣の戦闘を経て、最終的に徳川家康が新たな武家政権を打ち立てた。

⑥江戸に本拠を置いた徳川政権は、諸大名を巧みに統括すると共に、旧来の形式的権力、京都の朝廷とも円滑な関係を築く。諸大名の中小権力を重層化し、朝廷との複合化を果たすことにより権力は強大化し、最長(260年)の統治を誇った。

⑦幕末、外国の開国要求への対応をめぐって徳川政権は、攘夷をめぐって形式的旧権力、京都の朝廷と対立し、内戦が勃発した。朝廷の側についた薩摩・長州二大藩閥とその他の中小権力の連合体によって徳川幕府は仆れ、天皇に権力が集中する維新政権が成立した。西欧に倣い、時代遅れの立憲君主国家を目指す明治政府である。

⑧この政権は専ら西欧を模倣し、資本主義・帝国主義・植民地主義を推し進めた。大正、昭和と天皇の践祚があり、軍国主義に傾斜した昭和の時代、中国と戦争を始めた。対中戦争の収拾は付かず、遂には中国を支援する米国を奇襲した。その結果、世界(連合国)を敵に回す戦争に巻き込まれ、無条件降伏。国は崩壊した。
  
敗戦後は、連合国占領軍GHQの占領政策の下で、民主主義に看板をかけ替え再出発するが、新政権のリーダーたちは、旧の権力に連なる後継者たちだった。
新権力は、米国の占領統治が解けると、官・財との複合化により権力基盤を固め、1955年以来、反共・憲法改正・擬制民主主義・対米追従・経済至上主義を柱に、国政を運営して来た。
その政治は、成功した時期もあるが、内因する閉鎖性世襲性それに伴う縁故主義で徐々に人材の払底を招き、今日の停滞をもたらしている。難局への対応は常に遅れ、苦境を抜け出す効果的な施策が打てないでいる。

権力の終焉は、リーダーの求心力の喪失が主因となって内部の団結が緩み分裂する内因性のものと、外部権力との覇権争いでの敗北など外因性のものとがある。外因性のものも、多くはその端緒に内因が絡んでいるケースが多い。

権力が崩壊する時は、成立する時よりもっと速く進む。権力の船の乗組員たちが、我さきに沈む船から逃げ出すからである。
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