今年は例年よりサクラ(ソメイヨシノ)の花の開花が早く、それでいて開花後に寒気が戻ったため、長く花見を楽しむことができるそうだ。
花見というと、サクラの樹々の下にグループが各々陣取り、宴を繰りひろげるのがお定まりだ。花を愛でる人々の心がひとつに溶け合い食べたり飲んだり。員数の多いグループほど盛り上がり、他を圧して声高になるのは集団主義のもたらすもの。グループごとのシートが樹下に散開し、見ようによっては合同ピクニックみたいだ。しかし、これは本来のピクニックの対極にあるものだろう。
このような花の楽しみ方は私たちに独特のものらしい。独特の慣習ならそれは民族固有の文化で、今後もこのかたちの花見の宴は連綿と伝えられるに違いない。
サクラと同じバラ科の樹木はいずれも花が美しく、それぞれ観賞する値打ちがあるものだが、これほどにサクラが抜きん出て我々を惹きつけるのは何故だろうか?
外出を誘うにほどよい気温と開花期とがちょうど一致していること、樹体全体に密生する花着きの豊かさとその色合いが他の同属樹に見られないものであること、などが考えられる。淡色を好む日本人の美意識がその色合に強く感応することも関係がありそうだ。岐阜県根尾谷のウスズミザクラの花に美しさを見いだすセンスは、その種の感覚の精粋といえるだろう。
詰まるところ、われわれのサクラ愛好には、花そのものより見る側の内にあるもののはたらきが大きいように思う。長い文化的依存と交流の歴史をもちながら、私たちの祖先が一貫して中国人が好むモモやスモモの花色に馴染まなかったことは、彼我の色彩感覚の隔たりを示すものだろう。
サクラ愛好の根拠のひとつに、昔から散り際の潔さを挙げる説があるが、武士道に絡めた付会のようで胡散臭く、信じるに値しない。
サクラは、離れた位置から空の青やスギ・ヒノキの緑をバックに全体の花色を見るのが一番綺麗だが、個々の花をまぢかに観察してみるのも好い。
並木を覆う花全体が、淡紅色の叢雲のように連なる光景を堪能した後、その花の雲の中に入って幹や枝に近寄る。樹体の其処此処から出ている花房を、ちょうど地上に生えた草花を見るときのようにつぶさに観察する。花見は遠近両様を楽しみたい。
全体と個別に均等に眼を注ぐことは、何事によらず大切だ。「木を見て森を見ず」を戒めるあまり、「森を見て木を見ず」に陥いることは猶悪い。自然であれ社会であれ、物事は「木と森の両方を見る」のが望ましい。
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