道々の枝折

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日本人のルーツ

2023年10月20日 | 人文考察
日本人は、ルーツ探しが好きである。老生も中学生の頃から関心があった。不謹慎にも同級生の顔の特徴の多様なことに興味をそそられたのである。◯◯は北方系、◇は南方系などと言って戯れ合っていた。今ならハラスメントにされてしまうだろう。

専門家は、エビデンスに基づいて推論を進めるのが仕事だから、長い時間が掛かる。人類学や遺伝学、考古学に無知な素人は、現実の人間を任意に観察することで想像(妄想?)という裏技を駆使して推測する。

老生は絵を描くことが好きだったせいか、景観や人物の顔のディテールに関心が向かう悪い癖がある。記憶に留めたい欲求の露われかと思うが、人様の顔貌をしげしげと観察するのはマナーとして落第である。
観察によって、その人の顔立ちとよく似た人びとが高い密度で暮らす国や地域を特定し、過去にその地の人々が本邦に渡来して来た可能性を想像する。そして、現代日本人の共通の祖先に思いを馳せるのである。

素人の空想と恣意的な独断によると、私たち日本人の祖先は、3種の基礎集団から成っているのではないか?と思われる。この3種の集団は、身体の特徴が遺伝的に固定するほどの長い時間差をもって、現在の日本列島が所在した辺りにそれぞれ定住したと思う。その結果、現代の日本人は、遠い昔にそれぞれが外見的特徴を異にしていた3つの集団の混淆で出来上がっていると考えられる。

勿論各集団の特徴にはバラつきがある筈だから、標準というか代表格と見做される顔貌を想定している。そこが老生の空想独断とが活躍する部分で、科学的根拠は全くない。

一番早く(50〜60万年前ごろ)無人のこの地に到来していたのは、①南から島々を辿り海流に乗って来着していた【南方島嶼系】の海洋民。インドネシアからマレー半島のあたりを故地とする南方系古モンゴロイドと呼ばれる人々であったと想像する。この人々の仲間は分派を生じて主流がアジア大陸を北上し、シベリアで更に分派して支流がユーラシア大陸からベーリング海橋を徒歩で渡り、北米大陸から南米大陸に壮大な異動を展開している。

次に最終氷期(2万年ほど前)、海面が下がって大陸と陸続きで繋がっていたこの地にやって来たのが【南部シベリア系】の人々。古モンゴロイドがアジア大陸を東北へ移動した時にバイカル湖周辺で分派して現地に定着、氷河期の厳しい気象環境の中で世代を重ね、寒冷地適応してそれが遺伝形質として固定した、新モンゴロイドと呼ばれる人々。数では最も多かったのだろう。
彼らは当時巨大な湖(津軽海峡で外洋と繋がっていた)だった日本海の外周に南北から入り、当時としては比較的温暖なこの地に定着した人々である。因みに老生の母の顔貌はこの系統であると推測できる。

それからずっと時代が降る、歴史的には最も新しい時期に、中国の長江流域から、稲と稲作文化と鉄製農具を携え、海流に乗って列島に渡り来たった【中国江南】の人々。(彼らは①の古モンゴロイドと②の新モンゴロイドとが中国大陸において混血を累ねた人々の末裔だった)
老生の父はこの系統だったように思える。

以上の3つの同族集団に分類できる人々が、時間差をおいてこの地に来着し混淆を累ね、現在の私たちの祖先となったのではないかと空想している。

因みにアイヌの人々の祖先は、①の最も早い時機に列島に到来していた南方島嶼系の人々の末裔で、原日本人と言ってもよいと言えるのではないかと思う。遺伝子の研究から、アイヌの人々は沖縄の人々と近縁の関係にあると言われている。確かにその外貌は似ている(古モンゴロイドの特徴)ものを感じる。
3種の遺伝的形質の違いをもった人々が混淆し、現代日本人の祖先が出来上がったと見る。

これも非科学的な独断だが、遺伝的形質の固定した時期が前後する2つの人種間の混血では、子は人種成立の時期のより早かった方の親の形質的特徴が強く現れるようだ。
東北アジア人と白人とのこどもは白人の親の形質が濃く現れ、黒人と白人とのこどもは、黒人の親の形質が濃く現れる。
人種的特徴の固定が遅いほど、固定のより早かった人種に吸収同化されやすいのだろうか?遺伝子の安定性固定性に時間の要素が大きいだろうことは、誰でも想像できる。

時代が数万年下り、古墳時代の手前の頃になると、②の最終氷期にシベリアから移動して来た人々のうち、朝鮮半島に定着していた人々が、列島に渡って来ることが多くなってきた。その渡来集団の数と渡来頻度は多くはなかった。何故なら、その時代の言語を始めとする文化、特に生活文化が、ほとんどわが国に及んだり影響を与えたりしていないからである。帰化人とか渡来人と呼ばれる人々の数は、一般に考えられているより僅少だったかもしれない。渡来人の故郷は百済と新羅が主だが、2国の存在期間は高々600年ほどでしかない。国家としての最盛期は2〜300年ぐらいだろう。近・現代になっての朝鮮半島からの渡来者数の方が、遥かに多い。焼肉、キムチなどの朝鮮半島の食文化が普及したのは、戦後のごく最近のことである。

学校の日本史の教科書で名称を知った渡来人というものは、想像されるほどには多くなかったと見る。天皇制が確立してゆく過程で、学者や僧侶、技術者・技能者という人口比率の低い知識階級は渡来したが、入植などの形で一般農民など多数の人々が渡って来て耕作をした形跡はない。渡来人の数は少なく、定住地域は限局していた。

既に列島では王権が確立し、中央集権体制に向かっていて、権力体制に反して侵冦や入植をすることは不可能だったのだろう。もし多数が渡って来ていたら、激しい闘争の痕跡が各地に遺っていなければならない。
大和朝廷の時代になると、半島からの渡来者は減り、帰化氏族たちは日本人社会に吸収され消滅する。

日本の稲作農業は、③の時期の、中国由来が主であったと思う。朝鮮半島と列島との稲作農業の始期は、同時期であった可能性が高い。③の人々は、同時期に朝鮮半島と列島九州に到来したと考えるのが合理的だろう。

文化の移入摂取先が常に中国であったことは、疑問の余地がない。無理もない。中国は有史以前から朝鮮半島や列島に住む人々にとって、先進地域だったのだから・・・





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