自分がたまたま植物好きなので、身内贔屓になっているかもしれないが、植物愛好者というものはほとんどが、生物多様性に対する視座を備えているように思う。それ無くして彼・彼女の趣味は成り立たない。
趣味には、多様とは正反対に、固有ないしは特定に向かうものも多い。趣味の対象は多岐にわたりバラエテイに富むが、それら個々の趣味そのものには、多様性に対する素養を必要としないものもある。
視座の違いが趣味に及んでいることは興味深い。視座の違いは、実は趣味に留まらず、人の人生観・社会観・歴史観などの相違の根本的な要因となっている。
そうしてみると、どうやら視座は、信念や思想に立脚するもののようだ。視座があって視点がある。視座が安定していなくては、視点は定まらない。とかく視点が取り沙汰されるが、視座の安定に関心が足りないように思う。
この世に誤った信念や思想が溢れていることを識ると、正しい視座を保つことがいかに困難でありかつ大切であるか、深く考えざるを得ない。視座が安定性を欠いていては、物ごとを正しく認識したり把握・判断することは覚束つかない。
このことに気が付けば、政治家というものが、教育者と同程度に正しい視座を備えた人々でなければならないことがわかる。そうでないと、国の将来に瑕瑾をもたらすことになる。
政見よりも何よりも、先ず人としての視座を選挙民に示すのでなければ、選挙民は候補者を選び出せない。
政治家は政党員として政治信条を告白することは大切だが、人間としての視座を瞭かにすることの方が、より重要である。
国政であれ地方政治であれ、候補者の視座を見極めて投票することが、今私たち選挙民に求められている。これまで何がいけなかったのか?長く隠されて来たことは、今ハッキリと白日の下に晒されつつある。
いつまでも、その場限りの政見に誤魔化されていてはいけない。
選挙を前にした政党が、票数獲得の為に羅列する政見などは、個別の候補者の視座さえ正しければ聴くまでもない。政見から視座に、選挙民自身が、政治家選択のポイントを移すことが肝要である。
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