道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

宇佐神宮

2019年07月23日 | 歴史探索
1.宇佐神宮を訪ねるまで

日本の神道の始原は遠く縄文・弥生の自然神信仰の時代に遡る。その頃は山や島そのものを神体として崇め、神は磐座や樹木など依代に一時的に臨在すると考えられ、社殿・鳥居などの建造物は一切なかった。

神話と伝承の古墳時代になって始めて、鳥居らしきものが現れたが、まだ社殿は無かったらしい。仏教が伝来し、仏が人の形をして人格をもつ存在と知った上代の人々は、初めて神も人格ある存在と考え、神が鎮座する建物(本宮)を寺院に倣って建築するに至った。

神社の祭祀の歴史には、創祀と創建との間に文字の記録の無い、考古学の分野でなければ解明が及ばない長い時間が横たわっている。その時代の祭祀の実態は、断片的な考古学的発見の成果によってわずかに窺うしかない。

神社の由緒に関する文献史料は、神話と伝承をもとに、祭祀する側の神官等によって書かれたものが主な資料であって、学問的考証や批判に耐える客観的な文献史料というものは極めて少ない。

そもそも神道は自然信仰と祖霊信仰色が濃く、教理をもつ狭義の宗教の範疇には入らない。明治政府はキリスト教を排除する目的で、神道を国教化しようとする政策(廃仏毀釈)を推進しようとしたが、すぐに蹉跌した。

本来信仰というものは科学の埒外にあって、伝承という伝聞情報と、神話という権力者の命で創作された物語、さらには託宣(神託)と称する神の名を藉りた巫覡(ふげき)その他祭祀関係者による任意かつ恣意的な神のお告げがあるばかり。素人が神社の神を知ろうとするのは、正しい歴史を知ろうとすることよりも手がかりが少なく遥かに難しい。ただひたすら、畏れ畏む存在の神を、なるべく庶民から遠く厳かな存在のままにしておきたい、それが神社関係者の偽らざる本音だろう。神社の神は、今日でも幽冥定かならぬ存在である。

とは知りながら、神社には我々日本人の感性に触れる何ものかがあり、西行法師も伊勢神宮に参詣したおり、
“なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる”
と詠んでいる。それはインドから中国・朝鮮を経て渡って来た外来の宗教施設すなわち仏教寺院において感受する違和感の対局にあるものであろう。

ある民族の心性や特性を知るには、その民族の信奉する神々とその性質を知ることが有効だと思う。日本人の心性を知るには、神祇信仰はけっして避けて通れない。

2.宇佐神宮
かつて宇佐八幡宮と呼ばれていた宇
佐神宮は、全国に七千社余りある八幡神社の総社である。この神社の成立と発展、混乱と変遷、そして現代に至る繁栄には、ドラマチックな物語が歴史絵巻のように展開している。日本の歴史の各局面に大きく関わり発展してきたこの神社に興味を惹かれ、八幡信仰の原郷宇佐の地を初めて訪れた。国東半島の両子山はあいにく雲の中に隠れていた。宇佐神宮の最寄駅は、JR日豊線宇佐駅である。

因みに地元の人は宇佐をusa⤵︎でなく
usa⤴︎と発音していた。何事も百聞は一見に如かず、発音してみたが難しい。このイントネーションは、九州全体に共通するものだろうか?
小雨がパラつく悪天候だったので、タクシーで4kmほど西の神宮へ直行する。

表参道から境内に入り、仲見世沿いに歩むと、宇佐鳥居と呼ばれる笠木の反った朱塗りの一の鳥居が現れ、寄藻川に架かる神橋を渡る。しっとりと雨に濡れた瑞々しい深緑の中の参道を奥へ進み、二の鳥居三の鳥居をくぐる度に、森厳さが増してくる。人々の崇敬が累積された、時の重みの所為だろうか?

下宮への参道を右に見て正面の石段を登り檜皮葺朱塗りの西大門を入ると、三柱の祭神それぞれが鎮座する上宮の本殿三棟が、南に面して並列していた。この上宮の所在地は小椋山と呼ばれる低い丘である。
東から順に【一之御殿】祭神八幡大神(応神天皇)、【二之御殿】祭神比売大神(天三降命=三女神)、【三之御殿】祭神神功皇后(応神天皇の母=息長帯姫命)を祀る本殿がある。三柱の神が祀られているのは、この宇佐八幡宮の成立と神職団を構成する祭祀氏族および時の政権の政治的関心をめぐる複雑な関係の表れと見ることができる。

宇佐神社沿革
①八幡神は古事記や日本書紀にまっ
たく登場しない外来の神、新羅の神であり、それは736年、忽然と日本の歴史の表舞台に登場した。
②日本に初めて来た時、この神はすでに朝鮮半島において、中国の道教の影響を受けた仏教と習合していた。
③北九州筑豊地方に、数次にわたって渡来秦氏と見なされる新羅系渡来人の奉じた新羅の神は、八流の幡を携えた八幡の神だった。
④彼らは、銅の採掘・精錬や治水・灌漑、造瓦・造寺の先進技術をもち、東進の結果、宇佐の「駅館川」まで進出し定着した。彼らの神は「稲積山」に降臨する。この秦氏の一族は辛嶋氏と名乗っていた。
⑤辛嶋氏は土着の豪族宇佐氏の「御許山信仰」を吸収し、宇佐氏と祭祀を共にする。
⑥「磐井の乱」の後、宇佐氏は急速に衰退する。
⑦畿内において「三輪山」の神を奉斎していた古くからの名族「大神(おおが)氏」が衰退した宇佐氏に変わって来住し、応神天皇神功皇后を祭神に加え祭祀に加わる。これをもって、八幡神が成立し、宇佐八幡宮は皇祖神を祀る神社と成る。
⑧朝廷の「隼人征伐」や「藤原広嗣の乱」においても宇佐八幡宮は、強力に支援し、軍事面での活躍もあったらしい。
⑨宇佐八幡宮は推古朝の大仏造営という国家的事業を、資本・資材・技術・技能の全面にわたって支援した。八幡神は託宣して事業を推進し、彼らは膨大な銅と鋳造・鍍金の技術を駆使して大仏を造り上げた。宇佐八幡宮が存在しなければ、大仏造立は不可能だったかも知れない。
東大寺の鎮守として勧請され、「手向山八幡宮」となる。
⑩それ以来朝廷の宇佐八幡宮への尊崇は篤く、同じく皇祖神を祀る伊勢神宮に次ぐ神威を誇るまでに発展する。後の不祥事にも揺らぐことはなかった。
⑪興隆は止まるところを知らず、遂に弓削道鏡を天皇にする陰謀に加担、「宇佐八幡宮神託事件」を引き起こす。大神氏は一時的に失脚する。
⑫平城京になって山城の「石清水八幡宮」に分祀されると、これを拠点に朝廷はじめ一般の尊崇を集めた。渡来以前から備えていた神仏習合の神性が大きく寄与したと考えられている。
⑬中世には武士の尊崇篤く、その一方の棟梁源氏の守護神となった。

ざっと挙げただけでも、都を遠く離れた宇佐八幡宮には、他の神社には類を見ない神威と行動力があったことがわかる。そこには、神仏習合の先達としての外来神八幡の神の特質と、銅の生産と井堰・灌漑工事の二大事業で蓄積された「豊国秦氏」の大きな財力が作用していたと想像される。

創祀の後に作られた伝承や神話と託宣が信じられ、勧請・分祀という神霊の分散によって、八幡社は一貫して発展を続けた。現代でも日本で最も数が多いのは八幡神社である。

日本の神社は日本人の心性を如実に反映している。より神威の高い神を勧請し、有力な神社の神威の下に安定を求める心性は、神社ばかりか現代の凡ゆる集団にも顕著に見られる。神社は、事大主義と謂う、日本人の気質の象徴と言えるのではないだろうか。

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