人間は親であれ身内の誰であれ、人に愛されるべく生まれてくる。万人等しく、愛される権利をもって生まれてきているが、その権利が守られるかどうかは運命が握っている。不幸にして、幼い頃に愛の権利を享受できず、愛の体験に薄い運命もある。
しかし私たちは、運命の奴隷ではない。自立できる年齢になったら、運命を切り拓き、自らの力で愛を獲得する人生を歩まなければならない。幾たび失敗しても、真実の愛を自分の力で確保しなければならない。人生には平等に、十分過ぎるほどの愛の用意が、供えられている。
ひとりの人間の担える愛の重みは限られている。愛は分配すれば、そのひとつひとつは小さくなる。人は多数を愛する必要も、多数に愛される必要もまったく無い。少数、時にはたったひとりでも、自分ひとりを深く愛してくれる存在があれば、それで充分である。そのようにできている。ヨーゼフ爺さんの愛があれば、ハイジにはそれで充分なのだ。
愛されてその愛に応える関係、愛の交流が子どもの情操を育み、他者を愛する心を涵養する。愛された体験は凡ゆる情動の基礎となる。人生を肯定的に見る基盤になる。
深く静かな愛ほど、この世で尊いものはない。そのような愛に触れた者は、自分を愛し他人を愛することができるように成る。懇篤で誠実な心は、そこから生まれる。
愛は名利の対極にあるものだ。名利を求めれば、人を心底から愛せないし愛されることもないだろう。名利を重んずる暮らしに深い充足は訪れない。名利には際限がないからだ。真の愛を獲得できなかった場合には、人は名利を何よりも愛するようになるだろう。
「幸福な人生」とは、愛された体験を活かし、自分以外のあらゆるものに、篤実に応接することができる人生であろう。そのような人生こそ、運命を切り拓いた結果と言えるのではないか。
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