道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

日欧城塞比較論

2024年03月02日 | 人文考察

私は小学校の4年生ぐらいからお城が好きだった。小学校は浜松城の二の丸と思しき辺りに在り、生徒たちは隣接する本丸の丘一帯を「お天守」と呼んで遊び場にしていた。 
其処には天守台の石垣はあるものの、天守閣は無かった。もともと浜松城には、築城当時から天守閣がなかったらしい。後に要所に石垣を築いたのは、家康が江戸に遷って後の豊臣時代の城主、堀尾吉晴と伝えられている。
家康が築城した当時は、急迫する甲斐武田勢への防備に追われ、自然地形を生かした急拵えの陣城に近い城だったようだ。

その後幾つかのお城を訪ねたが、学童の狭い体験の中で最も強い印象を受けたのは、近江の彦根城だった。
石垣と水堀、天守閣と櫓や門が整備された、初めて見る典型的な城郭だった。

中学生になったら、西欧のシロに関心が移った。キッカケは1936年制作のフランス映画「隊長ブーリバ」の時代劇で、多分そのシロは、オープンセットだったと思う。当時はデパートの中に、小中学生を対象に低額で戦前の洋画を見せる小映画館があったが、其処で友達と観た、戦闘あり、恋愛ありのスペクタクル映画だった。
円柱形・角柱形の塔屋とそれに応じた円錐形・角錐形の屋根、高い城壁の胸壁と塔屋の出し狭間が興味を惹いた。
中学1年生だったが、日本の城と全く外観の異なる西欧のシロというものに強く魅せられてしまった。

敢えてシロと記すのは、西欧のそれに日本の土工で構築されたの文字を当てるのは不適当と考えるからである。土偏に成の旁の、城」はまさに日本の城に限って用いることができる用語である。中国は煉瓦を建築資材に多用する国で塞という語は高校の漢文で馴染みがある。
西欧はCastleが一般的だろうが、キャッスルは私たちには馴染まない語なので、便宜上これにシロの日本語をカタカナで当てさせていただく。

物事を理解するには、比較することが援けになる。共に自然地形に人工を加えた構築物だが、その人工のありかたに物・心両面に亘る大きな隔たりがあって興味深い。

西欧のシロは現地に豊富にある建築資材の石塊を積み上げて造られた石造建築物。
Castle(英)・ Château(仏)・Schloss(独)・Burg(独)・Castello (伊)Castillo(西) など、それぞれそのシロを造った民族により形態に応じた多様な用語がある。形態の違いは、防御性に重きが置かれているか居住性を重視しているかによる。

地球の寒冷期に大陸氷河に覆われていた堅い地殻の西欧は氷食地形、一方海底から隆起した軟弱な付加体起源の日本列島は、人の生活圏のほとんどが水食地形である。この地相の違いは、彼我のシロ・城の建築資材と建設立地に際立った差違をもたらし、それが日欧城塞の構造と形態に極端な相違を見る大きな要因となった。

氷食地形の西欧では、氷河の侵食作用により破砕された大量の岩石が、山岳部から平野部に至るまで遍く供給されていた。それは人間の居住生活が進展するに従い、建築・建設資材として汎く活用された。
また氷河の強力かつ長期に亘る侵食作用で削剥され、岩盤が露出していた隆起地の岩稜は堅固で、シロの建設に最適な用地を提供した。つまり西欧のシロは、資材立地において条件が恵まれていた建築物である。多様な意匠と設計にそれが表れている。

対する水食地形の日本は、人の居住域の沖積平野や洪積台地での石材の入手は困難、遠隔地の山中や海岸の露岩から切り出さなくてはならない。
大昔から日本の城の建設資材は、木材・竹材・山土・粘土を用いるしかなかった。
平城でも山城でも、基本は盛土切土による土木工事が主体の建造物である。建屋は全て木造、その堅牢性・防御性・恒久性は石材建築と比較にならない。それだけ、西欧のシロよりも、人口の程度が低い。これが後に書く自然との調和に関係する。

一言で日欧の城塞の本質を言うなら、日本の城は土木構築物西洋のシロcastleは石造建築物である。一方の原型は野戦陣地、もう一方の原型は要塞ということになるだろうか?

西欧のシロはおしなべて堅牢な石造建築物で年代を超え要塞として十全の機能を果たしてきたが、日本の城は風化を免れず、その防御機能は歳月で減退する。要塞としての堅牢性は比較にならない。南北朝以前の城地などは風化が進み、微かに地業の痕跡をとどめるのみ。西欧の堅牢強固なシロのように、荒廃しても建設当時を彷彿させる状態を保つことは覚束ない。

日欧の城塞はその構造・形態において全く異質なものだが、とりわけ私が注目するのは、門の大きさの違いである。防御性を高めるため、できるだけ門を狭く小さく作ろうとする西欧のシロと較べると、日本の城門の何と広く大きなことか!歴史的に強力な破城兵器の洗礼を受けていないからだろうか?何とも大らかなつくりである。それとも防御性よりも威容を重視する性向の表れだろうか?もしそうなら、これは戦艦大和建造に通じる発想で、我が民族の性情の一端を示すものということになる。

とにかく日本の城は、防衛上の観点からは異様に門が大き過ぎる。城内で集団密集隊形をつくり、そのまま部隊を押し出す戦術でもあっての形態だろうか?
それとも中国由来の悪しき伝統、勢威を誇り虚栄を飾る風習の模倣かもしれない。中国の城の門も壮大である。
とかく勢威を門で示そうとすると、城の防御性は弱体化する。

日本の城門は、初期の冠木門に感じられるように、ある種結界を意味する鳥居に近い表示物で、防御構造物としての執着性に乏しいように見える・・・どう見ても、執拗な攻撃性に凝り固まった、残虐無比な外敵を防ぐ為の工夫を凝らした結果とは思えない。そのような外敵が居なかったことが、日本の城を大らかな印象に特徴づけているのかもしれない。

西欧のシロと日本の城との比較でもうひとつ面白いことは、彼(シロ)は防御戦闘機能の精髄、我(城)は桜の花や松の緑と絶妙に調和して優雅そのものである。酸鼻で凄惨な戦闘を、失念させるものがある。
要するに、日本の城は、どこか戦闘そのものの熾烈さを忘れさせるものがある。徹頭徹尾苛烈な戦闘を意識していないかのような、妙な余裕すら感じる。侘び・寂びの精神に通ずるものだろうか?日本の城のもつ精神性は、もっと掘り下げてみなければならない。

建設資材(岩石)と立地に恵まれていたとは言え、西欧のシロの目的合理性とそれに発する設計思想の完璧性には驚嘆のほかはない。いやそれが当たり前で、愕く方がおかしいのかもしれな
い。日本の城も目的においては同じはずだが、どこかおおらかなところがあり、自然と調和した美しさがある。天守閣は本来望楼だったものが平和な時代に拡充されるようになったもので、天守閣に一体の建築物castleを当てるのは正しくない。

西欧のシロは防衛の上で一分の隙もない。十字軍との戦闘を体験して後に採用された出し狭間(マチコレーション)のある塔屋や城壁を見ると、徹底的に攻撃軍に損害を与えようとする強い執念を感じる。
城壁に沿う通路を右回り螺旋にし、敵兵の盾を持つ左半身分を城壁から離す工夫なども手が込んでいる。あまりに目的に適っているので、西欧のシロはおどろおどろしく陰惨な印象すら受ける。其処での生活を思うと、とてもfairytaleの場に相応しいとは思われない。メルヘンチックでもロマンチックでもない。
言語や宗教を異にする異民族とせめぎ合ってきた歴史が、強固な城塞建築を生んだと見てもよいだろう。その深謀遠慮を示す防御性の完璧さ施工技術の高さには、ただただ驚嘆するほかはない。

有難いことに、最近はインスタグラムとドローンの恩恵で、西欧のシロの全体像を具さに数多く見ることができるようになったのは有難い。ドローンで鳥瞰することで、立体的なシロの構造が細部までよく見える。
Castle・ Burg ・ChâteauSchloss の特徴を、現地に行かずとも視認できるのは洵に有難い。

日本の城は、その元が急拵えの一時的な野戦陣地に始まる。奈良時代から平安時代までの「柵」をわが国の城の始まりと見て良いと思うが、それは河岸段丘など防衛好適地に柵(しがらみ)・空堀・土塁・逆茂木・矢来・冠木門・望楼を備えた陣地である。
また平安末期に勃興した武士(豪族)の居館は、堀を穿ちその土を邸内に盛って土塁を築き、その土塁上に柵を結ったり塗籠壁を回らし、冠木門を構えていた。豪族の居館は鎌倉時代を経て戦国時代まで、領主の居住建築物を指すと呼ばれた。館は領主の代名詞でもあった。

戦闘に参加する人員の規模が大きくなると、防御性の劣る館より防御性のより高い、戦時に立て籠もる城の築造が盛んになる。
戦場で高地を確保した側が有利となるのは、いつの時代でも変わらない。拠点を山岳や丘陵に求めるのは、地上戦の常識である。陣地の延長の城は、当初は山の尾根上に建設された。

城は館の背後の尾根上に築かれた。
高度差のある尾根上の連続する頂稜部の幾つかを削平して平坦地を造成し、それぞれを曲輪(郭)と呼んだ。各曲輪の外周に空堀を掘り、掘った土を曲輪内に盛り土して土塁とする。山腹には、竪堀も掘られた。
土塁の上には柵を囲らしたり逆茂木を置く。最も高所にある曲輪を本丸と呼び、望楼を構え、領主家族や郎党の臨時の居住棟や厩も置かれた筈である。兵糧や武器の貯蔵庫なども曲輪内に建築された。
曲輪と曲輪との境界は門で繋がれ、最下段の曲輪には、虎口、追手門、本丸には天守閣や搦手門が配される。
天守閣は本来望楼だったものが平和な時代に拡充されるようになったもので、天守閣を西欧の建築物castleとを対比させるのは意味がない。
合戦時には、領主以下郎党たちと動員された領民が城内に立て籠もったはずだが、今ひとつ、籠城の際の将兵の居住空間が、どのようなものであったのかわからない。

時代が降って近世江戸時代になると、大名の城郭改修が盛んになり、各藩の城に石工による石垣構築物が増えたが、戦国期以前の城では、石垣よりも土塁・空堀が城の防御壁の主体だった。

つまり、日本の城は、当初から恒久施設として造られた要塞は少なく、合戦の都度構築した野戦陣地から、本格的な築城工事を経て恒久化したものに発展して来た。その過程で、門・櫓・天守など木造建築物が付加整備されたようだ。始めから恒久的要塞として建設されたのは、信長の安土城・秀吉の大阪城・徳川秀忠の江戸城ぐらいだろう。

西欧のシロは野戦陣地から始まったものではない。防御性を最優先した石造建造物は、急に拵えることはできない。始めから恒久性を考慮した建築物である。緻密な建築設計と長期に亘る工事期間、多数の専門職人と膨大な費用を要する。

西欧の石造建築物の多さは、地質的に氷河時代の破砕作用を受け、至る所に適当な大きさに砕かれた岩石が散乱していた西欧の原風景を物語る。氷食地形が石工技術と石造建築物を産んだと言える。
日本で石垣などの岩石素材を得るとなると、大きな岩体から石を切り出す作業が欠かせない。江戸城も大阪城も、石垣の素材は遠く離れた産地から運ばれた。手近なところに、適当な大きさに砕かれた岩石素材がゴロゴロ転がっている土地柄とは違い、石材を調達するのは最強の権力者でも容易ではなかった。安土城の石段には、墓石が使われているし、破却された佐和山城の石垣は、彦根城に流用されている。

目的は同じでも、日本の城と西欧のシロとは、凡ゆる面で対照的であり、凡ゆる面で異質である。
要塞としての堅固さでは、日本の城は西欧のシロの足元にも及ばない。
目的を徹底的に追求する西欧の合理性には感服する。無駄な構築物はひとつもない。
西欧のシロの特徴を要約すると
①門が狭く扉が重い
②全方位を射撃できる円柱または角柱状の塔屋と出狭間
③城壁上に胸壁が回らされ、攻撃性と防御性を両立している
④領主居館・兵員の居住棟が完備していて生活空間が広い(常駐兵力が多い)
⑤構造が基礎地盤の岩稜と一体化していて極めて強固(トンネル掘進不可)
⑥建造材は全て石質で火災に強い
⑦右回り通路(上からの攻撃を盾で防ぎ難い)の採用
西欧のシロcastleは防御施設としての目的合理性にとことん貫かれている。歴史的に、有史以前から西欧で様々な攻城兵器が開発されたのは、強固な石造建築を破壊する必要があったからである。

日本の城は、一言で言えば、土工すなわち土木工事が主体である。土塁と空堀、竪堀、柵と冠木門の野戦築城から出発している。石垣や漆喰塗り込めの建築外壁を備えるようになり、切込石積みの天守台に天守閣を備えた城が一般化するのは、近世江戸時代に至ってからのことである。

現存する日本の城は美しい。それは平和な江戸時代に完成されたものである。水堀・石垣・城門・隅櫓・天守閣のどれもが美意識で貫かれ、観賞に耐える人工である。武装の鎧を、あのようにまで美しくするこだわりと共通する美意識が感じられる。
美に拘る反面、防衛面の機能は低下する。江戸期の城は、防衛施設というよりも大名の政庁・質実な宮殿、すなわち権威の象徴だった。

西欧の城は、山城の場合でも日本とは較べようもない急峻な岩稜の上に、それと一体化した石造建築物が建つ。城壁の勾配はほとんどが100%に近く、塔屋と城壁、城主の居館と兵舎、倉庫からなる強固な石造の機能的建築物が集合する。徹底的に高所に防衛の有利性を求めている。

山稜の露岩と一体になるよう石を積み上げ、城壁・塔屋・兵舎・城主の居館などの石造建築が機能的、立体的に配置され、まさに城塞と表現するに相応しい。防備を極めている。
守備する人間の居住空間が大きい比率を占めるのも日本との大きな違いがあり、戦時籠城の機能は格段に高い。どの城も門は小さく狭く、その目的に適っている。

日本の近世城郭の幅広で壮大な両開き(観音開き)の城門は、城を豪壮に見せる演出なのか、防御性の観点からは首を傾げざるを得ない。
日本の山城の各曲輪で区画された斜面の平均勾配は最も急峻でも20度台である。人工的に築いた土塁の勾配が安息角の30度。僅かに天守や櫓門の石垣の勾配が60度から80度で、ほとんどが近世になってからのものが多い。
西欧の城の強固さは、攻城の激しさに対応するものだろう
日本の城のおおらかさは、何に由来しているのだろう?謎である。

私が不思議に感ずるのは、日本の復元された城に、兵員の生活空間がほとんどないこと。籠城時の兵員の生活はどのようなものだったのかわからない。戦国期の城の兵員収容能力と籠城生活を知る術がない。兵員ばかりか城主、家臣の居住空間も不明の城が多い。
天守閣の復元に拘りすぎて、城の機能設備への検証が遅れているように思う。
僅かに観音寺城と安土城には、部将の居住区の遺構があるが、意図と目的に違いがある。
非常時のみ籠城する性質を保ち続けたのが戦国以前の日本の城なのだろう。
城と館が対になっていて、城主は平時は館に、籠城時のみ城内に詰めた。温帯の気候温暖な日本ならではの兵站思想である。寒冷な西欧の中世のシロには、兵員の生活する居館が必ずあり、兵士の常駐を裏付けている。

日本の兵制に足軽といわれる傭兵が出現したのは応仁の乱あたりからといわれる。足軽に専門的に軍事訓練を施し、正規の常備兵にしたのは、織田信長らしい。それまでの戦国大名の兵員は、専ら領内の農民の戦時徴発で充当した。武士団の与力・同心制度と臨時徴発の農民兵とは、当時の社会の生産構造と深く関連している。

日本の中世の城では、将士が籠城すると言っても、そこで本当に兵士の集団が1ヶ月以上居住し生活できたのだろうか?将兵の食事を賄う厨房の建屋も、籠城中に睡眠をとる居住棟がどのようなものだったか、研究が進んでいない。歴然と遺構が遺っている西欧のシロと考古資料の規模が違う。遺構の風化が激しいから、調べようが無いのかもしれない。どうしても城の将士の生活空間への視点が、抜けているように感じる。
米や味噌だけは、相当量の備蓄が可能な建物があったはずだが。城内で兵員が居住・生活するスペースの遺構が少ないのはどう考えれば良いのだろう?
天守閣や櫓・門の収容人数はたかが知れている。思うに戦国時代以前は、兵員は城内に居ながらほとんど野営の状態だったと想像するしかない。雑兵という言葉が、日本の兵への蔑視を示している。彼らは常備兵としての扱いを受けていなかったかもしれない。一朝ことある時は、将士は城下から具足をつけて城に駆けつけ籠城する。そのまま、炊き出しの飯と副菜を食べながら戦闘に対応したのだろう。どう見ても、彼我の兵站思想には、大きな落差があるように見受けられてならない。この兵站思想の落差すなわち、兵員の生活軽視、延いては人命軽視の思想は、今日の為政者の政治にも時として顕れる。深いところで繋がっているのだろう。

日欧の城塞の構造と形態の違いは,互いの風土の違い、精神構造の違い,発想の違いを端的に示すもので、文化の比較の手がかりとして好材料を提供してくれていると思う。民族の精神は、形に現れるものである。


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