短歌・俳句という短い詩型は、海外の人には珍しく受け取られるらしい。
何故そのような詩型が生まれたかは、いろいろ説明されているが、主語がない言語とまでいわれる日本語に、その鍵があるようだ。主観と客観を明確に意識しない言語であることが素因ということか?
主語を曖昧化できる言語であるからこそ、短歌・俳句という詩は生まれた?・・・
もう一つの要因は、埒の内に囲われていないと、発想を気ままに楽しめない民族的気質。すなわち自由(無限の融通性)に馴染まない私たちに共通する性質があると思う。限られた詩型の枠の中でなら、ある程度自由に詩想を繰り拡げられるという楽しみ方が、気質に適うのだろう。
限られた詩型のお手本は、中国の詩、絶句だろうか?
ひらがなの発明により、韻文の詩型が短歌に収まり、俳句に繋がったと推察している。詩想表現の奥行(論理性)が浅くなった分、間口(情感性)は拡がったと見る。
短歌・俳句の特徴は、作者の詩境がその詩に触れる側の心象に大きく依存することである。俳句・短歌に共通するのは、詠み手と聴き手(読み手)の心象のインタラクティブな関係性である。それが短歌を、その始まりの時から、恋のツールにした。
言語は、私たちの心性を映す鏡である。おそらく私たちは、感興を事細かに伝えたり、分析したりすることにはあまり向いていないのだろう。西洋の文学と日本の文学の顕著な違いは、論理性の強弱に帰結するのではないかと思う。
主語のない日本語は主観で成り立っている。主観だから主語が不要になるのである。反対に客観が重きを占めれば、主語を明示する必要が増す。
文章や言論から客観性は失われる。
論旨は不明瞭になり、論理的な主張や議論の応酬を続けられない。日本語が議論に向かないのは、日本人が性格的に議論を嫌うからか?言語が議論に向かないからなのか?おそらく、その両方が理由だろう。言語は民族性を反映する。
主語(行為の主体)を明認しない言語は論理的に論旨を展開したり貫いたりできない。また、主語を隠せば、発言に対する責任も軽くなるだろう。私は日本人が議論を避けたがるのは、議論が解決に向かわないことを知悉していたからだと思う。それにしても、主体が不在の発想や行為は責任の所在を曖昧にし、言葉による説得力を欠く。
日本社会の全体を覆う自己韜晦の影も、主語の曖昧性に起因すると考えて良いのではないか?
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