学力は知的生産力とは相関しない。それは最高学府を出ても、革新的な知的生産物を産む人が少ないことでわかる。
ここで知的生産物と謂うのは、当人の創作による著作物や発明・開発である。その人の全知能から生まれたものである。
このことによって私たちは、知的生産力は学識の埒外にあるものであることを理解する。学ぶ能力は非生産的なものである。ここを勘違いすると、学んだだけで事足れりになってしまう。自ら何も生産しない人生を歩んでしまう。学歴主義が問題なことは、学歴が目的化していることである。
しからば,知的生産力は何をもって上げることが出来るかというと、それに適う答えは無い。敢えて言うなら,生産する意欲の有無ということになるだろう。
中国由来の学力神話に毒された儒教三国の親たちは、宗旨を替える必要がありはしないかと思う。
学術は人間の多様な能力のひとつに過ぎず、全能力の頂点にあるものではない。スポーツ・音楽・美術・文学・政治・経済その他、人の能力の多様さは枚挙に余りあり、時代によっても変動する。
人材登用の基準を科挙試験においた中国人の価値観をなぞるのは、現代では推奨されない。1300年もの長期間施行して漸く有用で無いことを知るお粗末さには、言葉を失うほかない。
日本の大学の創生時に、社会の指導的立場にあった人々が、おしなべて中国発祥の漢学を学んでいたことが、学力に偏って重視する習性を招く素因になった。学力が知力の指標にならないと判明した今日でも、牢固として学力偏重は改まらない。登竜門を通過する為の勉強が、勉強家にとっては最も楽で易しい役務だからである。
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