つらつら顧みるに、幼稚園の頃から岡惚れする質だった。学校時代は一貫して岡惚れ時代。結婚しても岡惚れ癖は熄まなかった。老いたら熄むと思っていたら、齢の分だけ岡惚れ対象の年齢幅が拡がっていることに気付き、我ながら呆れた。
辞書によると、岡惚れの「岡」は「傍ら」を意味し、岡惚れとはよく知らない異性や特に付き合いのない異性に、傍らから見ただけで惚れてしまうことだという。つまり傍らから刹那的に恋することである。一目惚れで片想いである。それなら、誰にも覚えはあろうかと思う。
テレビのタレントやアイドルグループ、女子アナや女性気象予報士の人気も、観ている視聴者たちの岡惚れがもたらすものである。キャビンアテンダントなどは、乗客の岡惚れ癖に配慮し、容姿が採用要件になっている。映画・演劇・歌謡など芸能ビジネスの世界は、ファンや観客の岡惚れで成り立っていると言っても過言ではない。人は動物と違って岡惚れする。
ロマンチストは夢想家だから惚れっぽく、執着しないから飽きっぽい。これでは岡惚れはいっこうに減らない。
岡惚れは心の裡に仕舞っておけるものだから、害も罪もないと思って安心していたら大間違い。女性というものは、男性が自分に関心を持ったかどうかを敏感にキャッチする能力が備わっているらしい。知っていながらそれを表に顕わさない。後になってご当人に気づかれていたと知らされ、大いに愧じ入り赤面することになる。要するに男性は、女性に対してお目出度たくできているようだ。
「岡惚れ三年 本惚れ三月、想い遂げるは三分間」などという下卑た都々逸がある。こんな都々逸をつくる輩は岡惚れの何たるかをわかっていない。岡惚れは岡惚れで終わるから好いのであって、本惚れの対面通行とはその質が違う。岡惚れは一方通行だからより意義が深いのである。
「淡く薄きこと霞の如し」、それ故に真正の岡惚れは高尚なものである。本惚れを目指す岡惚れは横恋慕と謂って偏執じみ、ホンモノの岡惚れではない。まして三分間を意図するなんぞ、ナントカの極みである。岡惚れは、それと知られることなく短時日で消滅するものでありたい。執着は野暮の骨頂である。
「三分間のことが頭を掠めるようではまだまだ未熟者」などと嘯くのは、三分間のことに縁が無くなった老爺のタワ言である。人生は突き詰めれば、三分間のことに始まっている。
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