道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

南宮大社・桃配山 探訪(雨天のため画像なし)

2018年09月11日 | 民俗・芸能

今月に入って台風とそれに続く前線の雨に祟られ、青春18きっぷ1回分を残し迎えた利用期限日の10日、東海地方は朝から雨の予報だったが、意を決してJR垂井駅に向かった。目的地は美濃国一の宮の南宮大社。国府の南に位置することがその名の由来という。

駅南口から2km足らずで朱塗りの社殿に着いた。祭神は金山彦命。天照大神の兄神だそうだ。全国の鉱山や金属業の総本宮とされ、崇敬を集めているらしい。

浜松市中区栄町の金山神社は、徳川家康が浜松城を築城するにあたり、南宮大社から祭神を分霊勧請したものと伝えられる。浜松城建設当時の鍛治職は、現在の中区鍛冶町でなく、金山神社の周辺に居住したらしい。隣接は釘、鋸、鑿を使う大工職の町。

他所の古い神社同様、南宮大社も、南宮山を神体として信仰していた永い時を経ているに違いない。神話の時代に先立つ、社殿も大鳥居もない素朴な自然物崇拝の時代・・・。

社殿の横から山頂に向かって人家の並ぶアスファルト道が延びている。道脇の草原から子鹿が飛び出した。この山は、鹿が多く生息しているそうだ。神域だから、野獣を狩る者はいないのだろう。

雨はあがる気配もない。山頂までは2時間近くを要するので、登頂は別の機会に譲ることにした。

関ヶ原の戦いでは、毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊の毛利勢と長宗我部盛親、長束正家が、本戦の1週間前にこの南宮山一帯に陣を敷いた。大将毛利秀元が最高所(400m)に陣城を構え、属将たちは山麓にかけて展開した。東軍の大垣城攻撃に対する備えであったと見られている。

歴史学者は、毛利勢が参戦しなかったのは、吉川広家が家康に内通していたからだという。最近では、関ヶ原の戦いは、東西両軍の歴史に遺る大決戦でなく、勝敗は既に決まっていて、開戦後2時間程度で方がついたという説が拡がっている。松尾山の小早川秀秋はどちらに就くか遅疑逡巡なぞせず、端から東軍として参戦していたとも言われる。彼の迷いは、関ヶ原戦ドラマのヤマ場として欠かせないが・・・。

それにしても、石田三成の戦略、戦術には疑問が多い。優秀な官僚であったことが、全て裏目に出てしまったのだろうか?

雨はあまり強くないので、国道21線でところどころ分断されている旧中山道を辿り、関ヶ原駅まで歩いてみることにした。壬申の乱のときの大海人皇子の本営、野上行宮跡を経て、皇子が兵士たちに山桃を配ったという桃配山まで来ると、雨は烈しくなり、雷も鳴り出した。

此処は関ヶ原戦で赤坂を進発した徳川家康が開戦前に本陣を構えた場所でもある。一時の雨宿りに、トラックが数台駐まっている食堂、その名も「天下茶屋」に飛び込み、軽食を摂った。雨中や寒い時の行動では、空腹を感じたら、行動食を摂らねばならない。

その間に雨は小降りになっていた。外に出ると関ヶ原の西、今須宿方面が明るくなっている。休憩が効いて軽くなった足どりで1kmほど進み、信号で右折すると、関ヶ原駅が指呼の距離に在った。雨に叩かれ散々の歩行距離は約9km。先年関ヶ原の主戦場を歩いたときは約16kmだった。関ヶ原の戦跡をつぶさに観て歩くとなると、おそらく30kmを歩かなくてはならないだろう。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 岡惚れ | トップ | 米沢(みなさわ)トレッキング »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿