道々の枝折

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言葉としぐさ

2018年09月03日 | 随想
「おはよう」「おはようございま
す」と朝の散歩ですれ違う人々と、気持ち好く挨拶を交わす度に“Good Morning”を交わし合う、またはそれと同じ語感の言葉を交わす人々を、少し羨ましく思うことがある。
 
文化の違いを論っても仕方がないが、日常の挨拶は、子供同士の対話のように、アッサリとケレン味なく交わしたいものだ。
 
「おはよう」には、互いに早起きを称え合う気分がある。褒め合う気持ちがある。早く起きて、農事に勤しむことを何よりも重視する農本主義的な道徳観が、言葉の裏にピタリと張り付いている。
 
これに敬語表現の「おはようございます」があるから、“Good Morning”のような闊達な語感は感じられない。集団の中にあるとき、我々はどれほど無意識にニュアンスの違う「おはよう」「おはようございます」を遣い分けていることだろう。地位や職位、年齢、親近感など、社会関係が微妙に挨拶に顕れる。
 
調べてみたら、この事情は農本主義の本家中国が本元らしい。中国語での「おはよう」は「你早」( nǐ hǎo)で、やはり早起きを称える。目上につかう丁寧な「おはようございます」に該るのは「早上好」( zǎo shàng hǎo)とか。つまり、日本の言語文化は、漢字と共に彼の国から来ているとわかる。敬語というものも、中国由来のものだろう。
 
Good Morning」からは、単純に朝の爽快感を人と共有する欣びだけしか感じられない。それ以上でも以下でもない。早くなくても、陽が昇りきっても、“Good Morning”は遣えそうだ。少なくとも、白眼視はされないだろう。
 
英語でモノを考え話し聴くことが自在な日本人や中国人は、英語では母国語を使うより、脳の言語中枢のメモリに過剰な負担をかけないで済むだろう。話すことに余計なエネルギーを使わないのではないか。
 
かつて、日本に住んだハンガリーの数学者が、膨大な数の漢字を図解認識として覚えるのは、右脳に過度な負担をかけ、創造系の右脳の活力を阻害すると言ったことがある。
 
幸い卓れた先人たちがひらがな・片仮名を発明してくれたおかげで、漢字一辺倒の本家よりは右脳に負担をかけないで、千年以上を過ごして来た。客観的に見て、日中両国の民族には、創造力に於いて大きな違いがある。デザインの分野に注目すれば、その差は歴然としている。審美眼は右脳が掌っているからだろう。
 
日本語は表現力に富む。富みすぎていて遣い方が難しい。扱いを誤ると、要らざる緊張を生む。微妙なニュアンスを伝えるに適している分、間違うと面倒の素だ。
 
敬語表現となると、言葉が身のこなしにまで密接に結びついていて、全身から尊敬や謙遜が漂わないと失格になる。だから「会釈」や「小腰をかがめる」その他様々なしぐさがボディランゲージとして存在し多用される。
 
これも中国が家元で、彼の国の人々も、宮廷などで次々と妙なしぐさを産み出した。日本人のしぐさは、日本語に初めから付随していたものでなく、漢字国家との交流を通じて、学んだものかもしれない。
 
とにかく、現代日本語は、固くしぐさと結びついている。発言の真意を補完する適切なしぐさを伴わないと、真意を疑われかねない。
 
電話で話すときに、見えない商談の相手にペコペコ頭を下げたり、和室の宴席で、着座している人の前を通る時、小腰を跼め右手を前に向け(ごめんなすって)とやるのは、いつ頃からのものだろう。最近は和室の宴席が激減したから、その珍妙なしぐさは廃れたと思うが・・・。奇妙で不思議なしぐさは、挙げればほかにも沢山ある。
 
形式化したしぐさは、偽態に過ぎないのだが、礼節の国と言われる我々の社会には、驚くほど挨拶に結びついた偽態が多い。挨拶は偽態で出来上がっていると言っても過言ではないだろう。それほど、我々の社会が偽態を必要としていることは、特筆されてしかるべきだ。時代劇に見る武士の作法が分かりやすい。
 
見知らぬ者への警戒感が強いのと同時に、身分意識が強過ぎる所為だろう。偽態は無意識の欺瞞であリ、当事者にとっては双方愉しくないものだが。
 
日本人同士にしか伝わらないこの偽態、海外で容貌の似た韓国人や中国人と同胞とを識別するうえでは、言語以外の明瞭な標識となる。
 
長くこの地に在住すると、外国人も言葉と共に我々のしぐさを身につける。しぐさのほとんどは、家庭や学校でなく、社会生活から学ぶものとわかる。
 
外国人にも言葉と密接に結びついたしぐさがある。我々がアメリカ人を真似るときのしぐさを思い出すとよい。肩を竦めたり、同意できないときのものだが、そのしぐさに偽態のそれは全くない。
 
何処の民族にも、言語を補う身体表現としてのしぐさというものはあるが、しぐさに偽態が多いのが問題だ。言葉そのものに信を置けない事情、言葉のニュアンスの複雑さが、その根幹にあるのだろう。
 
我々日本人同士ががつまらないことに廉を立てる原因の多くが、しぐさに対する不満から来ているのではないかと思う。「ガンをつける」つまり目の遣り場が争いの原因になることはよくある。他者の目遣いに極めてデリケートである。したがってそれを避けようとすれば、「目のやり場に困る」ことになる。非論理的な原因が容易に諍いを生む社会なのだ。初対面で相手の目を見て喋らない人が多いのは、それが無難であることを、経験的に知っているからだろう。
 
外国の映画などを見ていても、欧米人の態度は万事ぶっきらぼうに見える。情感が漂わない。恋愛映画などでは、字幕の日本語表現で補わないと、主人公たちの感情が細やかに伝わってこないことが多々ある。正確に訳すだけでは、洋画の字幕スーパー翻訳者は務まらないと、何かの雑誌で読んだことがある。
 
逆に邦画はしぐさが鏤められているので、存外日本語を知らなくてもわかりやすいのではないか。微に入り細に入り、異国人にもしぐさで感情を伝えることができるのではないかと思う。
 
小津安二郎監督の作品が欧米人に理解されるのは、素っ気ない言葉のやりとりの中に、カメラワークで情感を漂よわせる手法、間のとり方の技術が多用されているからだろう。そういえば欧米の映画は無言のシーンが多い。目の大きい白人は一般に、しぐさでなく、間と眼の動きで感情を伝えることに長けているのだろうか?
 
黒澤作品は、言葉も感情もぶっきらぼうそのもののところで、欧米人の体質に親和する作品をつくり、数々の映画賞に輝いた。センチメンタルな他の邦画との違いで、彼らの理解と評価を得たのだと思う。個人的には、外国の賞をとる以前の黒澤作品が好きだが。
 
閑話休題。とにかく日本語は、善かれ悪しかれ感覚的な情報を目一杯積載できる類稀な言語かと思う。まこと言語というものは、それをつくりあげた民族の心性と発想を凝縮したものと言える。
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