半世紀も前のこと、実家のごく近くに、安くて美味しいカウンターだけの中華料理店があった。その店は大層繁盛して、ノレン分けを含め市内の各所に支店を増やし、本店も他所に移転した。自然とその店への立ち寄りは間遠になり、とうとう足が遠のいてしまった。
孫の居る身になったあるとき、見覚えのある店名をグルメ雑誌で目にし、俄に古い味の記憶が蘇った。懐かしさに促され、今は市内の別の町にあるその店へ行ってみた。
驚いたことに、カウンターの中には当時本店で店主と共に働いていた若い弟子(実は子息だったらしい?)が、ほとんど昔と変わらない姿で料理を作っていた。髪は黒くシワも少ない。体型も声もほとんど変わっていない。半世紀の歳月が夢かと感じられた。私と同年輩かすこし年上のはずなのだが、彼我の違いは著しい。世の中には、エイジングの影響が及ばない人がいるものだと感心した。
昔ながらのメニューをオーダーすると、当時の味覚が蘇り、若い頃に戻った思いがした。栄枯盛衰、変転極まりない飲食業界にあって、昔の味を維持しているのは、調理の基本が確かなのだろう。同じものをつくり続けていると、つくり手自身の身体や心も変わらずに済むのだろうか?
ファストフードのように、食材の半製化とマニュアル化で、全国画一の味を売るビジネスは、料理というものの本質と乖離した世界をつくった。工業製品を製造する手法では、人の脳内に刻印される本当の味はつくれないだろう。
食べ物の味は、技術は同質でも料理人の舌によって違いが出る。当たり外れもある。そうあってこそ、食べる側に味を渉猟する愉しみがある。同じ店名なら、全国何処の支店で食べても同じ味というメニューは、それぞれの支店の料理人が、味に関わる部分にノータッチであるということの証左だ。マニュアルに統制された、個性不在の味である。味覚は人によって異なるもの、料理人の自己表現は唯一そこに集約される筈のものなのだが・・・。
経営の側からすれば、本社で設定した味を標準とし、作り手による味の偏差を極力小さくすることが、店舗展開の基本だろう。飲食事業の拡大を図るにはそれが不可欠だ。
私たちは、全国何処へ行っても同じ味の食べ物を食べることが出来るようになり、安心で便利で進化と捉え歓迎している部分もあるが、実は料理と似て非なるものを食べることに、馴らされているのかも知れない。「食は文化」という言葉の意味を、もう一度考え直してみたい。
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