展覧会名:企画展 戦前を生きる ~収蔵品が伝えるココロ~
場所:名古屋市博物館
開催期間:2023年1月21日~3月5日
訪問日:1月28日
展示内容:
・勅語関係資料 大日本帝国であったころ ・
・天皇行幸関係資料 名古屋での大パレード
・出征・銃後関係資料 たがいに祈り、思いあう
・ポスター・絵本資料 スローガンに囲まれて
・学童疎開関係資料 家に帰れない遠足、教師は
・写真絵葉書資料 風景という故郷を失う
・空襲下での個人の記録 もはや「銃後」ではない
1.はじめに
大きな寒気団のため、散歩がしづらい状況となっている。そこで混んでなくて適度に室内で歩けるところを考え、近くの名古屋市博物館にいって歩こうという事になった。行くと上記テーマの企画展をやっていたので入場した。
なお入るとき、戦前を生きると書かれていたので、第一次世界大戦と第二次大戦の間の世界恐慌からの閉そく状態から開戦に至る内容と思っていた。
しかし、博物館側では「本展では、太平洋戦争終戦までの時期の日本を、「戦後」に対する「戦前」として扱う」と定義している。内容を見ても、戦前と戦争中、そして絵葉書資料で戦前と戦後の風景を並べていることから、むしろ「戦争を生きる」もしくは「終戦前を生きる」としたほうが良かったのではないかと思う。
父母からいろいろ聞いていた勅語の箱や慰問袋の実物、検閲の手紙、そして戦意高揚のポスターなどがあり、とても参考になった。
2.各テーマ内容について
「ポスター・絵本資料」のところが最も印象に残ったので、沢山の写真を掲載する。その他は特記事項のみ述べる。
(1)勅語関係資料
戦前は、憲法・法律の体系と詔勅(教育勅語・軍人勅諭を含む)が2本立てになっていて、守るべきルールとなっているということを具体的に知った。
また学校等へ配布された教育勅語、それを入れる立派な筒、保管箱の実物も見ることができた。
配布された軍人勅諭もみた。ともに管理は大変だっただろう。
(2)天皇行幸関係資料
昭和天皇が即位する際、往復で名古屋に滞在した。往復の間は名古屋がお祭りのようだった。
下の写真は、天皇が名古屋駅から名古屋城へ移動するのを拝謁しようと道で待っている人々である。
また名古屋近郊で陸軍大演習が行われた時も、天皇が名古屋に行幸した。その際は市内が軍人で一杯になっている。郊外で行われている(現在は市街地)東軍と西軍の模擬戦闘を、名古屋城の天守閣から眺めていたようだ。下の図は模擬戦闘計画図。
以前スペインの軍事クーデター未遂事件の後にマドリーにいった時、機関銃座を付けたジープが走り回っていていやな感じがしたが、戦前の日本では普通の様に走っていたのだろうか。
(3)出征・銃後関係資料
ここには、出征時の赤紙から、送り出す時の旗など、そして出征兵士と家族のやり取りの手紙、また慰問袋などが展示されている。また戦場で身体的欠損をした人への天皇から下賜された義眼や義手も置かれていた。
手紙の検閲は最初は軍機の確認だったのがどんどん厳しくなり戦意高揚とは外れた言葉などの言葉狩りが行われた。送るほうも検閲逃れの工夫をしている。また夫婦間の場合は小さい細かい字でぎっしり、子供に送る場合はカタカナの比較的大きな字でなどの工夫をしている。
戦争の最初の頃は戦死者の家族へ、死亡の状況とお悔みの手紙を送っていたようでその手紙もあった。
慰問袋は、デパートが袋に詰める内容の推奨をしている。送られた側からの礼状もあった。
(4)ポスター・絵本資料
今回はここを是非見てほしいとおもった。
①ポスターについて
戦争の標語「進め一億火の玉だ」「欲しがりません勝つまでは」などは、こういった文字列で見てこんなものかと思っていたが、ポスターという絵との組み合わせや文字の配置などの優れたデザインの中でみると、なかなかの威力を発揮することがわかった。
②子供向けポスターおよび絵本資料
社会を洗脳するには子供からという話があるが、やや大きな子供に対しては子供向けポスターや教科書、小さな子供に対しては母親に読んでもらう絵本で、強力に洗脳しようとしている。空襲時対応も絵本に作っている。
(多分ドイツの絵本の焼き直し)
(灯火管制の説明)
(防空壕への逃げ方)
(5)学童疎開関係資料
家に帰れない遠足として、名古屋市から東海三県の各地に学童は疎開した。慢性的な食料不測と不衛生の中での終わりのみえない集団生活は過酷だったが、その写真と付き添っていた教師が公的に日々記録していた日誌が展示されている。教師にとっても雑務は膨大なもので、子供たちの健康対応などもありきりきり舞いをしていた様子が読み取れる。終戦日では終わらず、名古屋市がほぼ安定するまで継続されている。
(6)写真絵葉書資料
戦前の絵葉書写真と戦後の写真が並べられていた。当然戦前の名古屋城は、戦後にはないし、盛り場の大きなビルも戦後にはなくなっている。
(7)空襲下での個人の記録
いろいろな人が、戦時中の日記を書いている。その中で中学生が上空に米国飛行機がくるたびに、飛行経路を毎回記録していっているのは悲しい。
3.おわりに
終戦後、77年が過ぎた。その頃小学校の高学年ならば90歳前後となっていて、いよいよ戦争の生きた記憶が消えて行く状況になってきた。その時期にウクライナの戦争の一層の深刻化、日本の戦争能力向上に結びつく大幅な防衛方針の変更が起こっている。
こういった戦争の記録をもっといろんな場所で開示する必要があるのではないか。
この展示の狙った対象者はどの程度の年代なのか、意図がわからなかった。その日は私の周りは60歳以上の高齢者ばかりで、戦争経験のある人と接しているからだいたいイメージがわかるが、それよりもずっと若い人には展示に添付された説明文では分かりにくいのではないか。
また説明文自体が、サイズや光源の問題で読みにくいものだった。
この展示会の「戦前」という言葉の勝手な定義を含め、どうっやって戦争の情報を世代を越えて伝えていくかという難しさを感じる展示会だった。
場所:名古屋市博物館
開催期間:2023年1月21日~3月5日
訪問日:1月28日
展示内容:
・勅語関係資料 大日本帝国であったころ ・
・天皇行幸関係資料 名古屋での大パレード
・出征・銃後関係資料 たがいに祈り、思いあう
・ポスター・絵本資料 スローガンに囲まれて
・学童疎開関係資料 家に帰れない遠足、教師は
・写真絵葉書資料 風景という故郷を失う
・空襲下での個人の記録 もはや「銃後」ではない
1.はじめに
大きな寒気団のため、散歩がしづらい状況となっている。そこで混んでなくて適度に室内で歩けるところを考え、近くの名古屋市博物館にいって歩こうという事になった。行くと上記テーマの企画展をやっていたので入場した。
なお入るとき、戦前を生きると書かれていたので、第一次世界大戦と第二次大戦の間の世界恐慌からの閉そく状態から開戦に至る内容と思っていた。
しかし、博物館側では「本展では、太平洋戦争終戦までの時期の日本を、「戦後」に対する「戦前」として扱う」と定義している。内容を見ても、戦前と戦争中、そして絵葉書資料で戦前と戦後の風景を並べていることから、むしろ「戦争を生きる」もしくは「終戦前を生きる」としたほうが良かったのではないかと思う。
父母からいろいろ聞いていた勅語の箱や慰問袋の実物、検閲の手紙、そして戦意高揚のポスターなどがあり、とても参考になった。
2.各テーマ内容について
「ポスター・絵本資料」のところが最も印象に残ったので、沢山の写真を掲載する。その他は特記事項のみ述べる。
(1)勅語関係資料
戦前は、憲法・法律の体系と詔勅(教育勅語・軍人勅諭を含む)が2本立てになっていて、守るべきルールとなっているということを具体的に知った。
また学校等へ配布された教育勅語、それを入れる立派な筒、保管箱の実物も見ることができた。
配布された軍人勅諭もみた。ともに管理は大変だっただろう。
教育勅語
教育勅語を入れた筒 教育勅語を納める箱(別途 空襲時等に担いで逃げる箱も展示
教育勅語を入れた筒 教育勅語を納める箱(別途 空襲時等に担いで逃げる箱も展示
(2)天皇行幸関係資料
昭和天皇が即位する際、往復で名古屋に滞在した。往復の間は名古屋がお祭りのようだった。
下の写真は、天皇が名古屋駅から名古屋城へ移動するのを拝謁しようと道で待っている人々である。
また名古屋近郊で陸軍大演習が行われた時も、天皇が名古屋に行幸した。その際は市内が軍人で一杯になっている。郊外で行われている(現在は市街地)東軍と西軍の模擬戦闘を、名古屋城の天守閣から眺めていたようだ。下の図は模擬戦闘計画図。
以前スペインの軍事クーデター未遂事件の後にマドリーにいった時、機関銃座を付けたジープが走り回っていていやな感じがしたが、戦前の日本では普通の様に走っていたのだろうか。
(3)出征・銃後関係資料
ここには、出征時の赤紙から、送り出す時の旗など、そして出征兵士と家族のやり取りの手紙、また慰問袋などが展示されている。また戦場で身体的欠損をした人への天皇から下賜された義眼や義手も置かれていた。
手紙の検閲は最初は軍機の確認だったのがどんどん厳しくなり戦意高揚とは外れた言葉などの言葉狩りが行われた。送るほうも検閲逃れの工夫をしている。また夫婦間の場合は小さい細かい字でぎっしり、子供に送る場合はカタカナの比較的大きな字でなどの工夫をしている。
子供へのハガキ 夫婦間のハガキ
戦争の最初の頃は戦死者の家族へ、死亡の状況とお悔みの手紙を送っていたようでその手紙もあった。
慰問袋は、デパートが袋に詰める内容の推奨をしている。送られた側からの礼状もあった。
デパートの慰問袋ポスター 慰問袋の実物
(4)ポスター・絵本資料
今回はここを是非見てほしいとおもった。
①ポスターについて
戦争の標語「進め一億火の玉だ」「欲しがりません勝つまでは」などは、こういった文字列で見てこんなものかと思っていたが、ポスターという絵との組み合わせや文字の配置などの優れたデザインの中でみると、なかなかの威力を発揮することがわかった。
まずは 戦争かんばるぞというポスター群
銃後向けポスター
傷痍軍人 戦没者遺族支援のためのポスター
コメ節約、情報管理のポスター
②子供向けポスターおよび絵本資料
社会を洗脳するには子供からという話があるが、やや大きな子供に対しては子供向けポスターや教科書、小さな子供に対しては母親に読んでもらう絵本で、強力に洗脳しようとしている。空襲時対応も絵本に作っている。
子供向けポスター
子供向け絵本
(多分ドイツの絵本の焼き直し)
(灯火管制の説明)
(防空壕への逃げ方)
(5)学童疎開関係資料
家に帰れない遠足として、名古屋市から東海三県の各地に学童は疎開した。慢性的な食料不測と不衛生の中での終わりのみえない集団生活は過酷だったが、その写真と付き添っていた教師が公的に日々記録していた日誌が展示されている。教師にとっても雑務は膨大なもので、子供たちの健康対応などもありきりきり舞いをしていた様子が読み取れる。終戦日では終わらず、名古屋市がほぼ安定するまで継続されている。
お寺での講義風景
一斉にシラミ取
一斉にシラミ取
(6)写真絵葉書資料
戦前の絵葉書写真と戦後の写真が並べられていた。当然戦前の名古屋城は、戦後にはないし、盛り場の大きなビルも戦後にはなくなっている。
(7)空襲下での個人の記録
いろいろな人が、戦時中の日記を書いている。その中で中学生が上空に米国飛行機がくるたびに、飛行経路を毎回記録していっているのは悲しい。
3.おわりに
終戦後、77年が過ぎた。その頃小学校の高学年ならば90歳前後となっていて、いよいよ戦争の生きた記憶が消えて行く状況になってきた。その時期にウクライナの戦争の一層の深刻化、日本の戦争能力向上に結びつく大幅な防衛方針の変更が起こっている。
こういった戦争の記録をもっといろんな場所で開示する必要があるのではないか。
この展示の狙った対象者はどの程度の年代なのか、意図がわからなかった。その日は私の周りは60歳以上の高齢者ばかりで、戦争経験のある人と接しているからだいたいイメージがわかるが、それよりもずっと若い人には展示に添付された説明文では分かりにくいのではないか。
また説明文自体が、サイズや光源の問題で読みにくいものだった。
この展示会の「戦前」という言葉の勝手な定義を含め、どうっやって戦争の情報を世代を越えて伝えていくかという難しさを感じる展示会だった。
戦争がどういったものかはっきりと覚えているのが1945年で20歳だとすると、その方々は今年で98歳です。もう本当に少なくなりましたね。
明治生まれの方々だと、もう数千人か数万人いるかどうかくらいでしょう。