天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

センポ オオムラ メモリアル

2020-02-02 08:43:00 | 時事
大村知事にブロックされたメモリアルとしてこの記事を捧げる。

杉原千畝は平成になってから名誉回復がなされ、平成の世も終わろうとする平成27年に映画化、平成30年には愛知県にセンボスギハラメモリアルなる顕彰施設が建てられている。




愛知県の大村秀章知事は「一人でも多くの方が施設を見て、世界平和や人道の価値を伝えていただきたい」と薄っぺらいありきたりなコメントで愛知アピールに余念がないが、杉原一人の名誉回復と顕彰には不自然さや蟠りがある。

杉原の名誉回復、顕彰は次にあげる3名を隠蔽するためのカモフラージュに思えてならない。杉原よりも多く、二万人近いユダヤ人を救出しているにもかかわらずである。

表現しない自由を最大限に行使してセンポオオムラをはじめ日本が隠蔽しようとしているユダヤ人救出の元祖をここに記す。

犬塚 惟重(いぬづか これしげ)
海軍大佐
昭和40年2月19日(77歳没)



安江 仙弘(やすえ のりひろ)
陸軍大佐

昭和25年8月14日(62歳没)



樋口 季一郎(ひぐち きいちろう)
陸軍中将
昭和45年10月11日(82歳没)



そもそも昭和15年センボ スギハラのリトアニア日本領事館の元に何故ユダヤ人が押し寄せたのだろうか。

その2年前となる昭和13年樋口季一郎陸軍中将、安江仙弘陸軍大佐、犬塚惟重海軍大佐が2万人に上る大規模なユダヤ人救出を行なっていたからである。

少し日本軍とユダヤ人の関係性について触れながらユダヤ人救出を時系列で見ていこう。

日露戦争で、米国のユダヤ金融家のシフが資金不足の日本の戦時外債を購入しており、このため日本軍部はユダヤ人に深く恩義を感じていたことがベースにある。

大正6年にロシアで共産革命が起こると共産軍に対抗してウラジオストックに各国の軍隊が集結している。

日本軍参謀本部はユダヤ民族がロシアの共産党、反革命軍、諸外国の軍隊に広く分布している現状に専門家を派遣し研究を始めるが、それが【安江大佐と犬塚大佐】である。

このとき、ロシア共産党の支配を逃れて約5千人のユダヤ人が【満洲】に逃亡し、極東ユダヤ人協会を設立している。

昭和8年、ヒトラーが政権を取ると、ユダヤ人迫害が始まり、ユダヤ系ドイツ人は海外脱出を望むようになるが、米英は偏見から受け入れを拒否している。

このため、ユダヤ人は当時唯一上陸可能な支那事変中の上海租界への移住を考え、彼らはベルリンとウィーンの日本領事館から日本通過ビザを取得し、欧州発シベリア鉄道でソ連ウラジオ港へ到達し、敦賀、神戸経由で上海到着を計画したのである。

昭和13年3月8日、ユダヤ人が満洲ソ連国境のオトポール駅に到着すると、KGBは極寒の中、彼らを近くのユダヤ人居留区に収容するために下車を命じたのだ。

しかし、ユダヤ人は、断固拒否し、満州国内の極東ユダヤ人協会経由で満洲国政府に通過の許可を嘆願した。これを【樋口中将と安江大佐】が上申し、【東條英機関東軍参謀長】が決裁したので満洲通過が許可されたのである。

これによりユダヤ人は満州を南下し大連、敦賀、神戸経由で上海に到達することができたのである。

樋口中将は欧州駐在経験から残酷なユダヤ人迫害の事情を熟知しており、上海では日本海軍のユダヤ人問題対策機関「犬塚機関」が専門にユダヤ人難民を受け入れ、支那事変の物資不足の中でユダヤ教会建設にセメントを提供し、日本人学校の空き校舎を貸与するなどの支援までしている。

ユダヤ人の多くは、日本海軍の管理する共同租界の虹口地区に多く居住した。

米国ルーズベルト政権の中にユダヤ系高官が複数おり、厳しい反日敵視政策の緩和に
その政治的目的もあったと言われるが、敗戦まで上海や満洲におけるユダヤ人難民の保護は続けたことは、人道政策と言ってもよいだろう。

上海ユダヤ人協会は犬塚大佐に対し難民救済金が限界に達したので、ビザの発行停止を要望し、日本外務省は了解した。このときまでの上海のユダヤ人人口は1万9千人に達していた。

昭和14年9月のノモンハン事件講和直後、独ソのポーランド侵略と分割が発生、独ソの秘密警察は、ポーランドのユダヤ教の教会や学校を破壊し教師、生徒たちを捕らえ処刑した。

このため神学生数百人が緩衝地帯であった隣国のリトアニアに逃亡し隠れたのだ。

昭和15年7月犬塚機関事務所を上海ユダヤ人協会の会長が来訪し、犬塚大佐にユダヤ教の伝統を守るためリトアニアの神学生をぜひ救いたいと伝え、日本通過ビザの再発行を嘆願した。

犬塚大佐が上海総領事経由で外務省に問い合わせたところすぐに許可された。この知らせが上海のユダヤ協会から現地に急報され、リトアニア日本領事館に殺到した。

これを見て驚いた杉原は外務省に訓令を仰いだところ、外務省はすぐに発給を許可した。そこで7月29日から、杉原はビザ給付を開始、ソ連のリトアニア占領により杉原が9月上旬に領事館を退去するまで続き、約1500通のビザを給付している。

このユダヤ人は、今度は満洲を通らずソ連経由で日本の敦賀に上陸し、神戸経由で上海へ移住した。しかし、昭和16年6月の独ソ戦の勃発によりソ連経由の脱出は終わった。昭和20年の終戦には上海のユダヤ人口は2万5千人になっていた。

この6千人の差が杉原ビザの救った数と言われているが、実態はソ連の満洲侵略を逃れて在満ユダヤ人5千人の相当数が上海に脱出していたとも言われ定かではない。

【樋口中将】は、終戦直後千島防衛司令官として来襲してきたソ連軍に大打撃を与えて撃退したため、戦後ソ連はGHQに戦犯として身柄引渡を要求したがGHQは拒否している。

【安江大佐】は、昭和25年ソ連軍の大連収容所で虐待され死亡した。昭和29年にユダヤ人により葬儀が行われている。

【犬塚大佐】は戦犯容疑者として収監されたが上海時代米国ユダヤ協会から贈られた銀のシガレットケースの写真を提示すると、1週間で釈放されている。